竹内整一の著書にしばしば引用される見田宗介のもう一つの著作は『現代日本の感覚と思想』(一九九五年)である。特に以下の一節である。
前世紀末の思想の極北が見ていたものは〈神の死〉ということだったように、今世紀末の思想の極北が見ているものは、〈人間の死〉ということだ。
それはさしあたり具象的には、核や環境破壊の問題として現れているが、そうでない様々な仕方でも甘受されていて、若い世代はこのことを日常の中で呼吸している。核や環境破壊の危機を人類がのりこえて生きるときにも、たかだか数億年ののちには、人間はあとかたもなくなっているはずだ。未来へ未来へと意味を求める思想は、終極、虚無におちいるしかない。
二〇世紀末の状況はこのことを目にみえるかたちで裸出してしまっただけだ。人類の死が存在するということ、わたしたちのような意識をおとずれる〈世界〉に終わりがあるという明晰の上に、あたらしく強い思想を開いてゆかなければならない時代の戸口に、わたしたちはいる。
(「世界を荘厳する思想」)
心弱く、意志薄弱で、日常の小さなことで右往左往する小さな人間である私には、人類の死と世界の終わりを明晰に認識することそのことがまず戦慄的なまでに恐ろしい。冷静に理性的になど考えられない。できれば、考えたくもない。仮に、なんらの精神疾患にも陥らずに、奇跡的に、明晰に認識することができたとしよう。でも、その上で、「あたらしく強い思想を開いてゆかなければならない時代の戸口に」私たちはいると言われても、それは確かにそうなのかも知れないけれど、そんなこと、本当にできる人がいるのですかと、問い返したくなる。未来なき世界の明晰な認識を保持しつつ、いかなる宗教にも帰依することなく、今ここでの当為を果たし続けることに、いったいどれだけの人が耐えられるのだろうか。