内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「信じる」の日常言語的用法がもたらす、一見すると逆説的な帰結の説明 ― 昨日の記事の補足として

2019-09-16 19:14:09 | 哲学

 昨日の記事で問題にした「信じる」という言葉の用法について、その短すぎる説明が引き起こしたであろう誤解を解いておくために、一言補足する。
 昨日の記事で、「信じる」と「知る」との関係を問題にしたとき、それはあくまで日常言語での一般的用法のみを前提としていた。つまり、信仰と知解の問題は、そこではまだ立てられていない。「彼の無事を信じている」というとき、安否はまだ確認されていないが、私にはそうとしか思えない、そうでないとは思いたくない、あるいは、無事であってほしいという、祈るような気持の表現として理解されるのが普通であろう。幸いなことに、彼の無事が確認されれば、この表現はもはや使われない。
 同じく日常的な用法の範囲内では、誰にとってもすでに自明なこと、事実として広く知られていることについては、「信じる」は使わない。例えば、「地球は太陽の周りを公転していると私は信じている」とは今日誰も言わない。あるいは、「現在のフランスの大統領はエマニュエル・マクロンであると私は信じている」とは、彼が現に事実フランス大統領であるかぎり、言わない。しかし、「私は魂の不死を信じている」と言うことはできる。証明されたわけでも、実証されたわけでもないが、他の人はともかく、私にはそうとしか考えられないというとき、人はこう言うだろう。
 ここまでの用法に関して言えることは、「信じる」は、自分の思いとは独立に、普遍的だと認められていること、あるいは少なくとも一般的に承認されていること・広く知られていることには使えない、ということである。
 ところが、信仰が問題になると、この日常言語での「信じる」の用法をそのまま当てはめてしまうと、昨日の記事で見たような逆説的な帰結がもたらされる。
 そのすべての成員が敬虔なキリスト教信者である共同体を考えてみよう。その内部では、神の存在は、個々の信者の思いとはまったく独立した普遍的な真理として何の疑いもなく承認されているとしよう。その場合、日常言語での「信じる」の意味で、「私は神の存在を信じている」という発言はありえない。この意味では、彼ら敬虔なる信者たちは、神の存在を信じてはいない。もはや言うまでもないと思うが、それは、彼らが神の存在を否定しているということをまったく意味しないし、それを疑っているということも意味しない。彼らにとって、神の存在はあまりにも自明なゆえに、それを「信じる」という理由が、少なくともその共同体の内部にとどまるかぎり、ないのだ。
 その共同体に属さない外部の人間が、共同体の成員の一人に、「あなたは神の存在を信じていますか」と問うたとき、その人が「はい、信じています」と答えることはありうるだろう。それは、問うものと問われるものとの間に信仰が共有されていないからである。もちろん、その場合でも、その信者は、「私が信じるとか信じないとか、信仰とはそういうことではないのです」と答える場合もありうるだろう。
 以上から、昨日の記事で引用した「ただ非信者だけが、信者は信じている、と信じている」という文の意味するところは、以下のように説明することができる。「信者は信じている」という言い方をするのは、信者ではないものに限られる。なぜなら、その非信者は、信者たちにとって自明なことを共有できていないから、つまり、彼にはそれは自明ではないから、「彼らは信じている」と信じることしかできないからである。