内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

現代の息苦しさの原因を見極め、未来を希望あるものとして展望するために ― 大橋幸泰『潜伏キリシタン』

2019-09-28 19:55:36 | 講義の余白から

 教科書的に通り一遍に近代史を駆け足で話すのではなく、一定数の問題に限定し、それらの問題それぞれが開く視座から日本近代史を中世末期から現代まで見通すパースペクティブの中で読み直す。私が今年の講義で試みていることである。そのために参照すべき日本語文献には事欠かない。しかし、学部生の日本語文献読解能力は、比較的平易な現代語の文献であっても、まだ十分とは言えない。そこで、授業では、それらの文献の内容をフランス語で紹介しながら、日本語原典の一部を読ませる。
 大橋幸泰氏の『潜伏キリシタン』(講談社学術文庫、2019年。初版、講談社選書メチエ、2014年)は、そういう私の意図にまさに応えてくれる一書だ。
 著者は、序章「キリシタン」を見る視座」で、現代の息苦しさがどこから来るのかを問うて、近視眼的に直近の現代史の中にその理由の求めるのではなく、もっと長期的な視野をもって、その原因を見極めたいと言う。「そうすれば、“いま”という時代はどのような時代であるのかを理解することができると同時に、この先の未来を希望あるものとして展望するために何が必要か、という見通しも立てることができる。」その具体的な材料として、著者は宗教活動に注目してきた。

科学技術が高度に発達した現代、なお宗教活動はさかんである。過去に宗教を頼りにした人びとは多かったし、いまもたくさんいる。科学が私たちの疑問のすべてに答えてくれるわけではないから、科学が進展することと、人びとが宗教に救いを求めることは決して矛盾しない。宗教は、これまで世界中のどの地域のどの時代にも存在していたし、人類の知では解決できない難問―たとえば、人は生まれる前にどこにいて死んだらどこへ行くのか、人はなぜ生きるのか、など―が存在する限り、今後も消滅することはないだろう。宗教を無視して過去も現在・未来も語れない。宗教やそれに関わって起こる事件にそれぞれの時代固有の特徴が刻印されているとすれば、宗教に注目することは、右に指摘した現代の息苦しさの原因を見極める近道ではないか、というのが筆者が宗教を材料に歴史を見ようとする理由の一つである。

 この箇所は授業では前置きとして説明するに止め、次の箇所を来週までに訳してきなさいと宿題にした。

近代国家の条件として政教分離や信教の自由の保障も必要であるとされたこともあって、政府は神道の優位性を保ちつつ新たな位置づけを模索していき、たどり着いたのが神道非宗教論である。つまり、キリスト教をモデルに religion の訳語として宗教の語が定着するのと、神道非宗教論とは表裏の関係にある。この結果、神道は国家儀礼としての地位が与えられることになり、これがのちに国家神道と呼ばれていくようになる。確かに表面上は政教分離が実現したように見えるが、国家儀礼に位置づけられた国家神道の存在は事実上、すべての宗教の優位に立つことになった。