内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

古代ローマの一青年の「近くて遠い」眼差しから始まる今年の日本近代史の講義

2019-09-12 20:08:06 | 講義の余白から

 明日が「近代日本の歴史と社会」という講義の今年度第一回目の授業である。毎年、第一回目は、実質的に「哲学」の授業である。「歴史とは何か」「歴史を学ぶことにどんな意味があるのか」という問いを立て、およそ近現代日本とは関係なさそうなテキストを手がかりに、これらの問いに対する答えを学生たちと一緒に考えながら探していく。
 そのために、毎年、第一回目の授業の準備には特別に時間をかける。毎年繰り返し使っているテキストもある一方、必ず新しいテキストも加える。
 明日の授業では、その新しいテキストの一つとして、若きマルクス・アウレリウスが修辞学の老師だったフロントに書き送った書簡の次の一節を引く。

Après être montés en voiture, après t’avoir quitté, nous n’avons pas trop mal voyagé. La pluie nous a un peu mouillés. Mais avant d’arriver à la villa, nous avons fait un détour par Anagni, à mille pas de là. Et nous avons vu cette ville antique : elle est minuscule, mais elle regorge d’antiquités, de lieux sacrés et de rituels à n’en plus finir. Dans tous les coins des sanctuaires, des chapelles, des temples. Il y avait aussi de nombreux livres sacrés en toile de lin contenant les prescriptions rituelles. Et sur la porte de la ville, en sortant, j’ai remarqué cette inscription : « Flamine, prends le samentum. » J’ai demandé à un habitant ce que signifiait ce dernier mot.

 この一節は Pierre Vesperini, Droiture et mélancolie. Sur les écrits de Marc Aurèle, Verdier, 2016 の冒頭に引用されている(この本については、7月23日の記事を参照されたし)。マルクス・アウレリウスは、この一節で、自分が旅の途次に立ち寄った古代都市の遺跡についての感想を述べている。ところが、それを知らずにこの一節を読むと、Vesperini が言っているように、まるで現代の考古学の学生が書いた文章のように読めてしまう。つまり、同時代人としての「古代への眼差し」をそこに重ねてしまいかねない。しかし、実は、この書簡は、千九百年近くも現代から離れた古代に書かれたのだ。そのことを知ると、今までごく身近に感じられていたその眼差しが眩暈を引き起こすほどの超スピードで現代から遠ざかる。と同時に、マルクス・アウレリウスが生きた二世紀に見られた古代はさらに遥か彼方へと私たちの眼差しから遠ざかってしまう。
 歴史を学ぶには、この「近くて遠い」距離感覚が不可欠だ。というよりも、この距離感覚を身につけることが歴史を学ぶことの意義の一つだと言ってもいいのではないだろうか。それは、過去を適切な距離において捉えるという、自己の立場に対する批判的意識を保ちつつ行われなければならない地道な作業を通じて、私たちが置かれた現在の「場所」についてより明確な意識を持つことを可能にしてくれるからである。