内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

かくもドラスティックな措置が社会に引き起こしかねないことへの懸念

2020-03-14 17:37:19 | 雑感

 今朝五時から午後三時過ぎまで自宅でほぼ机に向かいっぱなしだった。来週月曜日からの大学閉鎖に備えて、すべての授業を再編成するために必要なメッセージを作成しては教員たちと学生たちに送り、同僚とメールのやりとりをするということをずっと繰り返していた。その合間にネットでの状況確認も一時間おきくらいに行った。
 それに加えて、西田幾多郎はどのくらいフランス語が読めたかと人からメールで尋ねられて、それに書誌的根拠を示して答えるために全集を取り出して論文、随筆、日記、書簡を調べもした。
 ずっとPCの画面を見続けたから眼精疲労がひどい。今日はもうやめたい。こんなことにならなければ、今週月火に行った試験の答案の採点をするはずだったのに。それは全部後回しだ。
 幸いなことに、学科の教員たちは迅速に今回の想定外の事態に対応し、それぞれの授業の再編成とネットを活用した授業展開を準備してくれた。有能な彼らの献身には心から感謝している。今のところ、学生たちからの問い合わせもほとんどない。大学上層部からの連日のメールが功を奏しているのだろう。確かなことは、私がいなくなっても学科はなんの問題もなく機能するということだ。
 今回の事態は一月半ばの学期開始当初にはまったく想定されていなかった。新型コロナウイルス感染拡大はまだほとんど他人事だった。それが今では世界でもっとも感染拡大が深刻なのは欧州である。
 それにしても今回の一連の緊急措置はなぜかくもドラスティックなのだろう。イタリアは国全体を隔離してしまったし、スペインもフランスもその例に倣いかねない勢いだ。これらの措置は感染拡大を抑制するには有効かもしれないが、それに伴う経済的損失は莫大であり、家庭生活も大混乱している。日用品の流通も滞りはじめていることが買い物に行くとわかる。いったい誰のための措置なのか。
 何かコロナウイルスを抑え込むことそのこと自体が至上命令化していて、そのためにはどんな犠牲も仕方がないと言わんばかりの措置が取られるのはなぜか。感染拡大抑制だけがこのような極端な措置の理由ではないように思えてしかたがない。まさか陰で糸を引くフィクサーがいるとは思わないけれど。
 学校が閉鎖になって喜んでいる若者たちもいるかもしれない。しかし、閉鎖が何週間も続けばストレスが過剰に溜まることは目に見えている。コンサートもスポーツイベントも中止が相次ぎ、公共施設も閉鎖、50人を超える集会は禁止、こんな状況下でエネルギーの発散場所がどこにもなければ、普段はおとなしい子たちだって「切れて」もしかたがないだろう。今回の措置が青少年犯罪の増加に加担しないともかぎらないという懸念が頭をよぎる。