内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「近代日本の歴史と社会」後期中間試験問題 ― 立体的・多角的議論の構成力を問う問題

2020-03-10 16:38:44 | 講義の余白から

 今日も長期連載「哲学的思考の型としての日記」はお休みします。今日の「近代日本の歴史と社会」の試験について一言記しておきたいからです。
 私が担当している科目の試験問題とその出題意図については過去に何度も拙ブログで取りあげてきました。今回も基本方針は同じです。授業で習ったことと授業外で自主的に学習したことを総動員して一つの問題をじっくりと時間をかけて自分の頭で考え、その結果に秩序だった表現を与えることをいつも学生たちに要求します。
 遅くとも一週間前に問題を公表します。問題が本当に難しい場合は数週間前から徐々に出題意図を説明していきます。用意周到な学生は私が授業中に示した参考文献ばかりでなく自分で探した参考文献に数週間前から当たり始めます。実際、そうしなければまともな答案は書けません。
 今回は先週問題を公表したのですが、今までにない反応で私もちょっと戸惑いました。これまでは公表すると驚きで教室がざわついたのですが、そのざわつきには面白がる気持ちも混じっていました。ところが今回は問題を聞いた途端に教室が水を打ったように静まり返り、重い沈黙がしばらく続きました。それはあまりにも難しい課題だと学生たちが暗い気持ちになったからだと私も気づきました。
 以下がその問題です。

下記の諸条件と参考情報を考慮に入れつつ、近代日本の将来についての架空の討論会を三人の討論者を招いて構成しなさい。

討論会のタイトル:「日本はどこへ行くのか? ― 日本は今や文明化された国なのだろうか?」

以下の三つの問題のうちの一つを選び、それを中心にして討論を構成しなさい。

(1)近代社会における自由とはなにか?
(2)独立精神は天皇制と両立可能か?
(3)二十世紀における個人と文明精神とはどのような関係であるべきか?

討論会の日時は1900年のいずれかの日を選ぶこと。

三人の討論者のうちの二名は福澤諭吉と中江兆民とすること。三人目は自分で自由に選んでよい。

以下、参考として三番目の討論者として可能な人選の例を挙げておく
福澤・兆民の同時代人(お雇い外国人教師でもよい)
欧米の思想家・哲学者(ルソー、ヴォルテール、ロック、カント、トクヴィルなど)
二十世紀の思想家・哲学者(丸山眞男、サルトル、フーコー、デリダなど)
架空の人物(自分で勝手に作り上げてよい)
自分自身

 こんな大問題について自分の考えを筋道立てて書くだけでも大変なのに、福澤と兆民に考えを述べさせ、さらにそこにもう一人の討論者を導入して三者による立体的で多角的な討論を構成しろ、って、K先生、そりゃあいくらなんでも無理ですよぉ~っていうのが彼らの第一印象であったのでしょう。
 無理難題であることは承知しております。それでもチャレンジさせるのです。私がこういうタイプの問題を出したのはこれが初めてではありません。以前、古典文学の授業で、「芭蕉と西鶴ともう一人招いて、文学とは何かというテーマの討論を構成しろ」という問題を出したこともあります。十年以上に渡って「常習犯」的にこのような試験問題を学生に課しています。
 しかし、いずれの場合も私が学生たちに身につけてほしいと思っていることは一貫しているのです。歴史のある時点に立って当時の当事者たちの身になって考えてみること。その際、歴史的事実を尊重しつつ論理的に思考を組み立て、かつ文学的想像力を駆使して歴史的真実に迫ること。複数の観点から問題にアプローチすること。それらの観点が交叉する立体的・多角的な議論を構成すること。内在的思考と外部からの鳥瞰的観察を組み合わせること。問題に対して、誰があるいはどの意見が正しいかを争うのではなく、異なった立場に立つ論者たちによる議論を通じて、問題そのものの理解を深め、より根本的な問題へと探究を進めること。
 これらの超欲張りな諸要求が一つの答案によってすべて満たされるわけではもちろんありません。そもそもそんなことはこちらも期待していません。上掲のような無茶な課題に時間をかけて取り組み答える努力をするという容易ならざる作業は、別の分野でも使える応用性の高い思考方法を身につけるための訓練の一つなのです。