内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

『遠隔寺職掌日誌断片』より ―「自己の必然的なる没落を認識するためには勇気がなければならぬ」

2021-01-13 19:55:02 | 雑感

 昨日、学部長会議において、少なくとも二月半ばまでの遠隔授業が決定される。向後、十人以下の少人数の実習及び補習のみ対面が許可される。
 同日、弊学科会議において、後期開始を原則二週間遅らせることを決議する。後期後半での対面授業の回数が増えることを期待しての決断。
 後期開始を遅らせたことで、教師にとっては授業の準備に余裕ができ、学生たちにとっては前期期末試験後に若干の休息と復習の時間ができた。一定の積極的効果を期待したい。
 後期私が担当する三科目のうち、一科目は二月の第一週から開始。残りの二つは来週から開始。これは履修者の一グループが後期後半に研修が必修であるための措置。開始を遅らせるわけにはいかない。
 本日、修士一年後期の「現代思想史」のテキスト選びに時間を費やす。決定に至らず。
 本日、参照した本(断りがなければ、仏訳あるいは仏語本)。川田順造『聲』(La voix. Études d’ethno-linguistique comparative, Éditions de l’École des hautes études en sciences sociales, 1998)、ショーペンハウエル『意志と表象としての世界』、「自殺について」、ミルチア・エリアーデ『世界宗教史』、ルイ・ラベル Morale et religion, アラン・コルバン Historien du sensible、三木清『人生論ノート』『哲学ノート』『読書と人生』『三木清教養論集』『三木清文芸批評集』『三木清大学論集』(この三論集はいずれも講談社文芸文庫)。以下、『大学論集』所収の「真理の勇気」(一九二八年一二月)からの引用。この勇気が私にはあるか。

「真理の勇気」という言葉はヘーゲルの有名な言葉であるが、私のもっとも好きな言葉だ。本当の勇気が事物の客観的な認識から出て来るのはもとよりである。しかし事物の客観的な認識を得るためにはなによりも勇気を必要とする。簡単な例をとれば、老人が青年によって打ち克たれるということは当然過ぎることである。そうでないならば一般に歴史に発展がないはずでなければならぬ。それ故に老人はまさに自己の没落の過程を認識すべきであるに拘らず、多くの場合彼等はあたかも自己が永遠の存在であるかの如く振舞う。自己の必然的なる没落を認識するためには勇気がなければならぬ。