今朝、本棚に並んでいる本の背表紙を眺めていてふと目に止まった立川昭二の『日本人の死生観』(ちくま学芸文庫 二〇一八年 初版 一九九八年)を手にとって読み始めた。本書には、短絡的とまでは言わないが、いささか性急とも見える図式的な断定も少なからずあり、それらには承服できないが、引用されている古典本文には心惹かれるものが数多くあり、それらを拾い読みしているだけでも、いろいろと考えさせられる。例えば、鴨長明の『発心集』からの次の一節。
中にも、数奇と云ふは、人の交はりを好まず、身のしづめるをも愁へず、花の咲き散るをあはれみ、月の出入を思ふにつけて、常に心を澄まして、世の濁りにしまぬを事とすれば、おのづから生滅のことわりも顕はれ、名利の余執つきぬべし。これ、出離解脱の門出に侍るべし。(第六、九)
この箇所について、浅見和彦は『新版 発心集』(角川ソフィア文庫 二〇一四年)の解説の中でこう述べている。
長明にいわせれば、数奇は俗世間の付き合いもなく、身の不運も忘れさせ、花・月を前に心を澄ませるから、自然と「名利の余執」から解放されるというのである。
長明のたどり着いた一つの解決策はこれであった。心にかかえる苦悩、煩悩が大きければ大きいほど、自然や芸術に身をゆだねる数奇は清澄な安寧を与えてくれるのである。
心の師となるとも、心を師とするなかれ
(発心集・序)
の『発心集』の冒頭に提起された命題はここにいたって、漸く答えらしきもの近づいてきたといえよう。ここにいたるまでの長明の苦悩はいかばかりであったろうか。
一切の欲心から離れ、仏道修行に一意専心、悟り澄ますことからは程遠い生涯を送った長明が度重なる煩悶を通じてようやく見いだした生き方は、数奇に生きる「美的な往生」(立川昭二『日本人の死生観』六四頁)であった。