私たちはどうしても自分自身の感性に応じて風景を見てしまう。風景への眼差しは、しかし、感性のみに依拠するものではない。その風景にまつわる想い出や連想によっても、その立ち現れ方は違ってくるだろう。それだけではない。風景を構成する諸要素に関して私たちが持っている地理的・地質学的・考古学的・人類学的・歴史的知識等によっても私たちの風景知覚は左右される。したがって、同じ場所に立って同じ風景を前にしているからといって、「私たちは今同じ風景を見ている」と安直に言うことはできない。とすれば、今自分の眼前に広がる風景がたとえ百年前と少しも変わっていないと仮定しても、百年前の人たちが今の自分と同じようにこの風景を見ていたのだとは簡単には言えない。風景は時代とともに変わりうるものであり、それに応じてその風景に対する感性も変化する。自分が生まれる前の時代の風景に対する感性を再現することは厳密にはできない。ただ想像してみることならできるだろう。
こんなことを昨日話題にした柳田國男の『明治大正史 世相篇』を読みながら考えた。明治大正期の日本人にとっての鉄道というものの意味についての次の箇所も、私たちはいったい何をどう見ているのかという根本的な問いを突きつける。
いわゆる、鉄の文化の宏大なる業績を、ただ無差別に殺風景と評し去ることは、多数民衆の感覚を無視した話である。たとえば鉄道のごとき平板でまた低調な、あらゆる地物を突き退けて進もうとしているものでも、遠くこれを望んで特殊の壮快が味わい得るのみならず、土地の人たちの無邪気なる者も、ともどもにこの平和の撹乱者、煤と騒音の放散者に対して、感嘆の声を惜しまなかったのである。これが再び見馴れてしまうと、またどういう気持に変わるかは期しがたいが、とにかくにこの島国では処々の大川を除くのほか、こういう見霞むような一線の光をもって、果もなく人の想像を導いて行くものはなかったのである。(ちくま文庫版『柳田國男全集』第二六巻、一二五頁)
この箇所を引用した後、見田宗介は『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』(岩波現代文庫 二〇〇一年)の中でこう書いている。
あたらしいひとつの世界がひらけてくるときは、じっさいひらけてくる世界よりもはるかに以上の世界がひらけてくるもののように、わたしたちは思う。(三五頁)