河出文庫から2013年に出版された中谷宇吉郎『科学以前の心』の解説「科学という詩」の中で、編者である福岡伸一は、中谷宇吉郎の有名な言葉「雪は天からの手紙である」について次のような独自の解釈を提示しています。
これは、一般には、雪の結晶構造を調べることによって、上空の気温や水分の状態がわかる、という意味に解釈されている。科学者・中谷宇吉郎にとって、いかにもふさわしい表現である。しかし私は、理に落ちるそのような解釈ではなく、ごく自然にこの言葉を受け止めたい気持ちがする。つまり、雪は、読もうとするとその端から消えていくような、はかなくも淡い手紙のようなものであると。中谷の文章には過剰な情緒や感傷がほとんどない。でもそれは彼が冷たい人であったことを示すものではない。むしろ私は中谷がきわめて心細やかな、やさしい、温かい人だったと思う。ただ、それをあえて表には出さなかった。中谷は科学においてはすぐれて能弁な語り手であり、同時に、すぐれて抑制的な詩人だったのだ。私は、そんなふうに考えたい。雪の結晶に似て、ささやかながら、冷たく、固く、美しい秩序を保つこと。それはほんの一瞬かたちをとってまもなく失われる。それが中谷の文章に対する礼節であり、美学だったのだ。そう思えるのである。
『雪』の本文は、昨日の記事で見たように、「雪の結晶は、天から送られた手紙である」となっていますから、この文の解釈としては福岡の捉え方は支持しにくいと私には思われます。しかし、中谷宇吉郎の散文の美学についての評言としては正鵠を得ているのではないでしょうか。