内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

現代情報・メディア社会の問題を考えるためにプラトンを読む

2022-02-11 23:59:59 | 講義の余白から

 現代社会のメディア・リテラシーについて考えていると、プラトンの対話篇のいくつかを参照するに立ち至ることが少なからずある。それは決して偶然ではない。なぜなら、プラトンは、知を形成・伝達する「メディア」(媒介・媒体)について、時代を超えた深い洞察をその対話篇において示しているからである。
 少なからぬ学生たちが、前期中間試験の答案の中で、授業で取り上げた『国家』の「洞窟の比喩」に言及していた。その文面からわかることは、この比喩によって、今自分たちが置かれている現代情報社会の問題が鮮やかに浮き彫りにされることに彼らが深く印象づけられていたことである。高校の哲学の授業で習ったときは、おそらく大して興味も引かれなかったであろう「洞窟の比喩」に対して、彼らは思いもよらぬコンテクストの中で再会し、興味を示したわけである。「仕掛け人」としては、「してやったり」であった。
 後期にもプラトンは登場する。今日読んだ西垣通の『ネットとリアルのあいだ』にも『国家』への言及がある。第3章「未来のネット」の中の「ソクラテスの警告」と題された節にそれはある。
 ネットの仮想空間の中で、壊れた「私(自己)のリアル」の破片を抱えながら幽霊のようにさまよう現代人を問題にしながら、氏は、「自由平等を建前とする民主制に移行していく文明進歩のなかに、すでにその前兆はあったのだろうか」と自問する。その直後に『国家』における民主制批判が引用される。巻末の参考文献一覧からわかるように、中央公論社の『世界の名著』版からの引用である。同版は手元にないし、学生たちに引用箇所の前後をあわせて読ませるにはやはり仏訳のほうがいいから、該当箇所のステファヌス版の頁付(560e - 564b)を示しておいた。
 前期、メディア・リテラシーの授業でプラトンにはじめて言及したときは、彼らはかなり面食らっていたが、石田英敬の『大人のためのメディア論講義』の中にも『パイドロス』のムネーメー(記憶)とヒュポムネーシス(想起・記憶装置)との違いに関わる箇所がかなり詳しく説明されているのを読むに及んで、メディアの問題を考えるときにプラトンを参照することはけっして「はったり」や衒学趣味や奇を衒うことではなく、現代メディア社会の問題を根本的に考えるためにプラトンが重要なヒントを与えてくれることを理解したはずである。
 だから、今日の授業で『国家』への言及箇所を読んだときも、もうそれは驚くにはあたらず、といった様子であった。それが単に授業内の受け身の反応に終わらず、彼らがこれから現代社会の様々な問題に直面し、自ら考えることを求められるときに、プラトンを読んでみようかという気に自ずとなることを願いつつ、メディア・リテラシーの授業でこれからも繰り返し言及していきたいと思っている。
 それもあって、後期の最終回、つまり彼らにとって学部最後の授業でも、「現代ネット社会におけるメディアと民主主義」というテーマで話す。