内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

日々の心に染みわたる不思議な「嬉しさ」

2022-02-12 11:19:09 | 雑感

 今日から実質十日間の冬休みです。実質というのは、大学の正式な学年暦では来週月曜日からの一週間が休暇ですが、私の場合、月曜日に授業がないので、今日十二日土曜日から二十一日月曜までの十日間が休みになるからです。たいしたことではありませんが、やはり嬉しいものです。
 とはいえ、先日も話題にしたように、この休み中に研究者としてやっておくべきこと、予定されていることがありますから、授業の準備に時間を割かなくていいかわりに、その時間を発表原稿執筆、発表資料作成にあてることになります。でも、それは義務としてではなく、どちらも受けた依頼にこちらから応えるためですから、そのために時間を使えることは嬉しくさえあります。
 ここ数日のことでしょうか、自分でも理由がよくわからず、不思議な感覚なのですが、一言で言えば、「嬉しい」という気持がじんわりと心を浸しています。一昨日の記事で話題にしたことは、ほんとうに嬉しいことなのですが、それだけではなく、何か特別なことがあったから「嬉しい」というのではなく、あと何年生きられるかはわかりませんが、それはとにかく、今こうして生きていられるだけで、「大したことはできないが、これはこれで、まあ、わるくはないよな」と、嬉しく思うのです。「ありがたい」とまで言ってしまうと、少し嘘が混じるような気がします。
 もしかしたら、これは、ボケ始めた、いや、すでにボケが始まっていて、それがいよいよ進行し、「恍惚の人」への道をそれだけ前に進んだということなのかも知れません。それならそれでよいではないか、と思います。遅かれ早かれ、「ゆくみち」なのですから。
 あとは、孤独死の危険が現実的なものである老生は、できるだけ人様に迷惑を掛けない死に方をするための準備を少しずつ周到に進めていくつもりです。こういうのを世間では「終活」というのでしょうが、最近なんでも「活」をつけりゃあいいのか、と言いたいほど、「◯ 活」という言葉が氾濫していて、それにうんざりしているので、使いたくありません。
 ただ、思索だけは、これはほんとうに切願ですが、死ぬその日まで、先日も使った表現ですが、焦らず怠らず、そして、弛まず、心を強張らせず、続けていきたい。そのためにこそ、健康には細心の注意を払い、毎日走り続けたい。今願うことはそれだけです。