内的自己対話-川の畔のささめごと

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愛による創造への飛躍の哲学 ― 九鬼周造「偶然と運命」と「日本的性格」を合わせ読む

2022-02-24 23:59:59 | 哲学

 九鬼周造は、「日本的性格」を『思想』に発表した前月の昭和十二年一月二十三日、「偶然と運命」と題したラジオ講演を行っている。『九鬼周造全集』第五巻の解題によると、後に『をりにふれて(遠里丹婦麗天)』(一九四一年)に収録された「偶然と運命」は、そのラジオ講演の原稿をそのまま活字化したものである。確かに丁寧な話し言葉の調子がそのまま残されている。偶然と運命について、わかりやすい言葉遣いで、具体例を挙げながら説明している。岩波文庫『九鬼周造随筆集』にも収録されている。
 「日本的性格」の原稿とどちらが先に書かれたかはわからないが、発表時期からして相前後して執筆されたものと思われ、両者を合わせ読むことで、九鬼の偶然と運命についての考えと「おのずから」と「みずから」についての考えとがどう重なり合うか、どう補い合っているか、よりよく理解することができる。
 九鬼はこの講演で、偶然の三つの性質として、何かあることもないこともできるようなもの、何かと何かとが遇うこと、何か稀にしかないことの三つを挙げ、それぞれに説明を与えた上で、運命を次のように定義する。

偶然な事柄であってそれが人間の生存にとって非常に大きい意味をもっている場合に運命というのであります。[…]人間にあって生存全体を揺り動かすような力強いことは主として内面的なことでありますから、運命とは偶然の内面化されたものである、というようにも解釈されるのであります。

 このように定義された運命に対して、九鬼は、ニーチェの『ツァラトゥストラ』に言及した後、こう付け加える。

人間は自己の運命を愛して運命と一体にならなければいけない。それが人生の第一歩でなければならないと私は考えるのであります。

 そして、運命に対してどうあるべきかについて、次のように述べて講演を結んでいる。

人間としてその時になし得ることは、意志が引き返してそれを意志して、自分がそれを自由に選んだのと同じわけ合いにすることであります。山鹿素行の武士は命に安んずるべきこと、すなわち運命に安んずべきことを教えているのでありますが、安んずるというばかりでなく更に運命と一体になって運命を深く愛することを学ぶべきであると思うのであります。自分の運命を心から愛することによって、溌剌たる運命を自分のものとして新たに造り出していくことさえもできるということを申し上げて私の講演を終わります。

 「おのずから」生じたことをそれとして従容として受け入れるだけでなく、「みずから」それを引き受け直し、しかもそれと一体になるほどに深く愛することで、創造へと飛躍する可能性を九鬼は示唆している。ただ運命を「あきらめる」だけではなく、運命を深く愛することで「あきらめ」を超えていく。人生にとって深刻な偶然性を運命として受け入れかつそれを愛することで超えて行く。九鬼が最終的に目指していた哲学は、「偶然性の現象学」でも「運命の哲学」でも「自然の哲学」でもなく、愛による創造への飛躍の哲学だったと言うことはできないだろうか。