内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

講読テキスト選びの難しさ

2022-02-22 23:59:59 | 講義の余白から

 修士の演習の講読テキストの選択には毎年悩まされる。思想史の演習だが、時代は近現代に限定されているし、もちろん日本語で書かれた日本思想の或いは日本思想史ついてのテキストから選ばなくてはならない。これが日本人相手だったら、日本語の難易度をあまり気にせずにかなり自由に選べるから、さほど困らないだろうと思う。ところが、相手はフランス人学生である。しかも、大変嘆かわしいことに、赴任してから最初の二三年に比べると、学生たちの日本語のレベルが明らかに落ちているので、それでも読めそうで、しかも読むに値すると私には思われるテキストを選択するとなると、なかなかこれといったテキストが見つからない。
 それと、これは私自身の問題だが、選択したときは一応自分では納得していたはずなのに、演習の準備のために当のテキストを読み始めると、あるいは学生たちと教室で読み始めると、テキストそのものに対する不満が募ってきて、それを押し殺しながら読みすすめるに難儀する。で、ときどき「切れる」。学生たちを前にテキストに対する不満をぶちまけてしまう。昨年のテキストだった三木清の『人生論ノート』に対してもそうだった。学生たちは一生懸命仏訳を準備してきてくれて、それを比較検討しながらテキストの理解を深めるのは、彼らにとっても私にとってもいい勉強だったのだが、三木の文体や論旨にだんだん腹が立ってきて、学生たちを前に悪態をついてしまった。
 明日から始まる後期の演習(全六回)では、一九三七年に発表された九鬼周造の比較的短い論文二つ、「日本的性格」と「風流に関する一考察」を、それぞれ三回の演習で読む。日本語の難易度としてはどちらもちょうどよいくらいだし、面白い論点も出されてはいるのだが、前者には、かなり図式的なところがあり(もとが高校生向けの講演だったということは割り引く必要があるだろうけれど)、そういうところを読むと、もうほんとうにげんなりしてしまう。
 まあ、そんなこと言ったって始まらないのだから、気を取り直して、どう面白く読むか考えてみよう。