内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「道は歩くときのみに存在する」― フランシスコ・ヴァレラ他=著『身体化された心』より

2022-02-15 23:59:59 | 哲学

 九鬼周造が「日本的性格」で示したように、古語「あきらむ」の原義に立ち返るならば、「あきらめる」ことは「明らめる」ことであって、「諦める」こと、つまり何かを断念あるいは放棄することではない。それは、むしろ、根拠なき世界をそれとして受け容れる勇気を与えてくれる。しかし、「明らめる」だけでは、根拠なき世界を生きてゆくためにはまだ何か足りない。
 私たちの経験から独立し、それ自体として不変に存在するものを探求する客観主義が、とどのつまり出口のないニヒリズムに私たちを陥らせることが明らかになったのは、西洋では十九世紀以降のことだが、仏教においては中観派によって古代からこの無根拠性は理解されていた。そのことを認知科学の領野において見事に示したのがフランシスコ・ヴァレラ他=著『身体化された心』(工作舎 2001年。原著 The Embodied Mind, 1991、revised edition, 2016)である。

われわれの導きとなる比喩は、道は歩くときのみに存在するというものであり、最初の一歩として、科学文化における無根拠性の問題に対峙し、空の開放性においてその無根拠性を身体としてあるようにすることを学ばなければならない、とわれわれは確信してきた。(338頁)

Our guiding metaphor is that a path exists only in walking, and our conviction has been that as a first step we must face the issue of groundlessness in our scientific culture and learn to embody that groundlessness in the openness of sunyata.

 この直後に、まさしくこの主張を展開した人物として西谷啓治の名が挙げられる。ヴァレラらは、西谷の「哲学的であるが身体としてある、真に惑星的な漸進的反省を深めようとする努力」(Endeavour to develop a truly planetary form of philosophical yet embodied, progressive reflection)を高く評価する。そして、その次の節において、西谷の思想の本質的な論点をいくつか検討している。