このブログを九年あまり続けていますが、あるテーマについて連載することもあれば、その日その日の雑感を書きつけるだけのこともあります。連載の場合、短くても数回、長ければ数週間、同じテーマについて書き続けることになりますから、あらかじめ準備もできるし、すでに連載のための素材が揃っている場合もあります。その日の思いを徒然なるままに綴る場合は、あらかじめ準備することは当然できません。記事を書く段になって、何を書こうかと思案することになります。あるいは、何かほかのことをしているときに、ふとテーマが浮かぶこともあります。ジョギングしているときにもそれはあります。
もう一つのケースは、あらかじめ準備してあったテーマのかわりに、たまたまその日に起こった出来事あるいはちょっと気づいたことについてどうしても書きのこしておきたくなり、テーマを変更する場合です。今日の記事はこの第三のケースに該当します。ちなみに、予定されていた記事のタイトルは「ミメーシスとカタルシス、あるいは一つの美的体験」でした。
さて、本日のお題に入りましょう。
「今日は私がJDMの動向を発表しています。」
先程帰宅してメールボックスを開けてみると、来週月曜日の授業で口頭発表する学生の一人から発表原稿が届いていました。その冒頭の一文が上掲の文です。この学生は、日本語のできがあまりよくなく、しかもそのことがよく自覚できていません。ですから何度も同じ間違いを繰り返します。二週間前に最初に彼が送ってきた文章は、ほんとうに理解不能だったので、「直しようがないから全部書き直してください」と突っ返しました。それで今日送られてきたテキストの冒頭の一文が上に掲げた文です。
この一文をもって六〇〇字ほどのその文章は始まります。まあ、言いたいことはわかります。本人が文章の改善に努めたこともわかります。
それはそれとして、この文が文法的には間違っていないのに発表の冒頭の一文としてどうして適切さを欠いているかを、このような文を書いてしまった本人にわかるように説明するのは、そんなに容易なことではありません。
もし私がこの一文をどう添削するかを教室で学生たちに説明するとしたら、以下のような手順になることでしょう。
ただし、「しています」が不適切であること、「を」よりも「について」がより適切であることの理由の説明は比較的容易なので、それらは省略します。
「今日は」はいいとして、「私が」はちょっとへんでしょう。なぜ変なのでしょうか。書いた本人のレベルに合わせてその理由をどう説明したらいいでしょうか。これは「が」と「は」の違いという実にやっかいな問題の具体例のひとつです。日本語上級者でもこの点でまったくミスがない人は非常に少ないのです。
上掲の文を、「今日は、私は[…]について発表します」と添削したとします。
これでも「は」の繰り返しが引っかかります。しかし、問題は、一文内に「は」を繰り返すことそのことにはありません。問題点をより明確にするために、「今日は」と「私は」のどちらかだけを残してみましょう。
まず、「今日は」を残すとすると、「今日ではない別の日には、他のテーマについて話した、あるいは今後話すであろう」という情報が内包されます。実際、学生たちはあと三回別のテーマについて発表することになっているので、「今日は」という限定は妥当です。
「私は」だけを残すとどうなるでしょう。「他の人は違う話題を話した、あるいは、これから話すだろうけれど、私に関して言えば」という情報が内包されることになります。しかし、それぞれ異なったテーマについて話すことはすでにみんなが知っていることですから、このような限定は不要です。もちろん、この点について強調したい場合は「私は」を使うことは妥当です。特に、私は他の人と違った話題を選んだのだと強調したければ「私は」を使うのは適切です。
しかし、口頭発表の冒頭において「私は」とは言わないことのほうが実例としては多いのは、それぞれ異なったテーマについて発表することが前提されているから、「私は」と言ってわざわざ自分を際立たせる必要がないからです。これは、自己紹介するときに日本人はわざわざ「私は」とは言わないことが圧倒的に多いのはなぜなのかという問題と同じ問題です。
いきなりこの問題の解答を示す前に、上掲の元の一文だけを見て、それが妥当な一文であるような場面を想像してみましょう。
ある会議中に上司が会議室に入ってきたとします。その上司が、「どうして君が発表しているのかね。A君が担当するはずじゃなかったかね」と聞いたとします。それに対して、今日A君が急病で欠席し、それで彼と同じプロジェクトで一緒に仕事をしていた私が急遽彼の代わりに発表していると答えるような場面では、上掲の一文は適切な一文となります。逆に、このような場面で「私は」は不適切です。上司の問いに答えたことにならなくなるからです。
このような場面を想像しつつ、それと口頭発表の場面とを比較して、発話行為の状況として両者の間にどのような違いがあるかを考えてみると、口頭発表の冒頭の一文には「が」が不適切であることについてかなり明瞭な説明が可能になってきます。
ここまでの考察を前提として、口頭発表の冒頭でなぜ「私は」と言わないのかを再度考えさせます。それは上に述べたように、自己紹介の場面との共通点が解答の鍵になります。その解答を一言でまとめると、「話し手(書き手)と聞き手(読み手)とにすでに共有されている、あるいはそう話し手に判断された情報は原則として省略されるから」となります。
ところが、さらによく観察してみると、この解答も厳密さを欠いていることがわかります。なぜなら、話し手(書き手)には「省略」という意識もないからです。言語行為は話者間ですでに共有されている自明な情報を前提として成り立っており、日本語の場合、この自明性は場面の構成要素としてその場面への参加者たちに暗黙のうちに共有されていて文の構成要素としては現れません。だから、順番に発表することがすでにその場面で参加者たちに自明であるとき、話す当人は「私は」とは言わないのです。
ここまでの説明から導かれる結論として、上掲の一文は、「今日は[…]について発表します」と添削されます。
この2点から考えてみたいのは、フランス人学生さんにはおそらくここで主語を省略する発想がなく、日本語ではそれが自然に生じるのはなぜか、という問題です。これは、日本語が「ハイテクスト言語」(話者と聴者の共通了解に頼りがち)だから、というのがよくある説明ですが、それだけだと実際の発話場面において生じる上記の「ぶっきらぼう」さを説明できませんし、逆に、英語やフランス語では、なぜ文脈的に自明なはずの「私は」にあたる「(Today,) I would like to」などの言葉が入るのか(発話において経済的でないはず)という疑問が出てきます。私はこれについても、ヨーロッパ言語の統語論的特徴あるいはコンテクスト提示型言語という説明だけでは、説得的でないと思います。
おそらくこの場合、「I would like to talk about」は聞き手の耳を素通りしていて(目の前のその人がspeakerであるのは自明だから)、聞き手は「Today、さて何が来る?」と予期しながら聞いています。つまり、余計な情報があるおかげで、聞き手に時間的余裕が与えられ、続く「(talk about) the latest trends of DMT」に耳、あるいは頭が付いてこられるという仕組みなのです。裏を返せば、日本語で発表の冒頭、いきなり「今日は~について話します」だけだと「ぶっきらぼう」と感じるのは、聞き手に時間的余裕を与える配慮がないように感じるためではないでしょうか。それゆえ、もし発言原稿が「今日は(…)について発表します」であったとしても、実際には日本人はおそらくこんな風に話すのではないでしょうか。
「えぇ~、それでは、今日はですね、えぇ~(引っ張る)、JDMの動向について話したいと思います」
日本語に、この「(今日は)ですね、えぇ~」のような間投詞?が極めて多いのは、話し手がそこで考えているというのも無論ありますが、聞き手に「I would like to」に相当する時間的余裕を与える意味が大きいのではないか、と推測します。逆に英語では、「I would like to」と言っている間に、必要であれば次の表現を考えられますので、「Well」とか「Let me see」といえば、本当に何か考えているのではないかと思います。
えらそうにコメントしてしまい、すみません。フランス人の学生さんが、皆頑張っているのがこのブログからも伝わってきますし、日本語のこういう隠れた特徴も伝えてあげると面白いのではないかと思い、書かせていただきました。