今日と明日の二回でメーヌ・ド・ビラン最後の日記全文を読み終える。
On ne peut savoir d’avance à quel degré de nullité morale et de dégoût de soi-même la maladie peut nous réduire. J’en suis la preuve vivante.
L’homme hait son existence lorsque tous les instants sont des souffrances et que l’espoir de changer d’état est détruit : c’est en ce cas l’âme qui est dégoûtée de son corps qui ne la sert plus, importunée et fatiguée par cette machine délabrée qui l’occupe malgré elle, en ne lui envoyant plus que des impressions pénibles, tristes, décourageantes, qu’elle ne sent plus la force de changer ni de distraire. Comment se fait-il que l’âme tombe dans cet abattement, cette misère par certaines modifications organiques dont il lui est impossible de se dégager par sa force propre, tandis que dans d’autres altérations de la machine, l’âme se sent entière et capable de faire taire le corps ? Celui qui pourrait assigner les conditions de ces états connaîtrait à fonds la nature humaine.
病気が私たちをどの程度の道徳的無価値と自己嫌悪に陥らせうるのか、あらかじめ知ることはできない。私がその生きた証拠である。
すべての瞬間が苦しみであり、自分の状態を変える希望が破壊されたとき、「人間」は自分の存在を憎む。この場合、魂は、もはや自分の役には立たない肉体に嫌気がさし、自分の願いとは裏腹に自分を占領し、苦痛と悲しみと落胆に満ちた印象しか送ってこないこの老朽化した機械に悩まされ、疲れ果て、もはやそれを変えることも気をそらすこともできないと感じる。魂が、自らの力ではそこから解放されることが不可能なある種の器質的変化によって、このような落胆や不幸に陥る一方で、この機械の他の変化においては、魂は完全で肉体を黙らせることができると感じるとは、いったいどうしてそんなことがありうるのだろうか。このような諸状態の条件を見極めることができる人がいるなら、その人は人間の本質を知り尽くしているだろう。
魂がそこから解放されることが古代ギリシアから願われてきた牢獄としての肉体は、一度病気になれば、どこまで人間を道徳的に苦しめ自己嫌悪をいだかせるかわからない。病気は、場合によっては、それが肉体にもたらす苦しみからの解放を願うエネルギーさえ奪ってしまうところまで深刻化する。
しかし、ビランは、そのようにぼろぼろになってしまった自分の肉体に対して、日記を記し続けることそのことによって最後の抵抗を試みているかのようだ。
ビランは、日記において自らを証人として召喚し、肉体がどこまで魂を支配しうるのかを包み隠さず証言させた最初の哲学者であろう。
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