内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「世間無常」と桜花の散りやすさとを結びつけた万葉集唯一の歌

2019-04-12 23:59:59 | 詩歌逍遥

 巻八「春の相聞」に見える厚見王と久米女郎との贈答歌(一四五八・一四五九)には、当時としては珍しい趣向が凝らされている。

やどにある桜の花は今もかも松風疾み地に散るらむ

世の中も常にしあらねばやどにある桜の花の散れるころかも

 厚見王の歌に見られる桜と松の組み合わせは珍しく、また当時桜といえば山桜が一般的であり、「櫻はその自然なる野山にあるを賞するを以て普通とすること古今にかはらず」(山田孝雄『櫻史』櫻書房、一九四一年、二一頁。本書の初版が国会図書館デジタルライコレクションで無料で閲覧・ダウンロードできる。現代語訳付きの学術文庫版も古書で入手できる)。その桜を「やどにある」と相手の庭に引き据えたところがこの歌の趣向である。同じく『櫻史』には、「櫻を賞する情は野山にあるままに詠むるに飽き足らずして之を家處の邊に移し植うることをなさしむるに至るは自然の勢なり」(二三頁)とあり、この厚見王の歌を例として引き、「まさしく庭前の櫻なり」とする。万葉の時代も第四期に入ると、桜を庭に植える習慣が広まっていったようだ。
 歌意は、「庭に植えてある桜の花は、今頃、松風がひどく吹いて、ひらひらと地面に散っていることだろうか」(伊藤博『釋注』)。『釋注』は、「女の家の落花の美しさを思いやった風流の歌を装いながら、裏に、しきりに迫る男のあるままにその他し男に心を移しているのではないかという意を寓しているのであろう」と解しているが、諸注釈間で解釈にかなりの相違がある。
 「久米女郎の報贈せし歌一首」について『釋注』は、世の中に「男女の仲の意を寓し、無常の世(定めなき男女の仲)の習いとしてあなたこそ心変わりしていっこうに訪れがないものだから、我が家の桜の花(私)は仰せのとおり他の人に心を移してしまったとやり返したものと覚しい」と「ややきつい」解釈をまず提示した後、「あなたこそ桜の花のように心変わりしているとやり返したもの」というより「すなおな」解釈を添えてもいる。
 岩波文庫の新版『万葉集(二)』に、「上二句は『世間無常』の仏教思想。桜と無常観とを結びつけるのは、万葉集でこの歌だけである」とあるのが、特に私の注意を引いた。「世間無常」とあれば直ちに仏教思想に結びつけることができるのか、いささか疑問ではある。この「世の中」を男女の仲と取れば、仏教思想とは関わりなく、誰でも懐きうる感懐であろう。それはともかく、桜花の散りやすさと男女の中の儚さ・移ろいやすさを結びつける趣向は、万葉の時代には独創的であり、その点、久米女郎の歌は注目に値する。












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