内的自己対話-川の畔のささめごと

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「傷つきやすさ vulnerability」ではなく「傷つけやすさ」こそが問われる ― 村上靖彦『すき間の哲学』より

2024-12-05 23:59:59 | 読游摘録

 本日午後、明日午前中の博論審査のためにパリに移動。16時40分東駅到着。13区の国立図書館フランソワ・ミッテラン館近くのホテルに直行。このアパート・ホテルは INALCO が予約してくれた。出来て数年の新しい建物だが、おそらくは今年のパリ・オリンピックの際に様々な国の観光客にひどくよく利用されたせいなのか、すでにかなり傷みが目立つ。夕食は、このブログでも昨年の6月24日の記事で話題にしたことがあるお気に入りのレストラン Lao-Viet で。開店時刻の18時半少し前に入れたので客は私一人。いつものようにとても感じの良い接客。料理にも満足。
 昨日の修士一年の演習で最近入手したばかりの村上靖彦の『すき間の哲学 世界から存在しないことにされた人たちを掬う』(ミネルヴァ書房、2024年)の以下の箇所を読む。

私は今まで多くの人を傷つけてきたという罪悪感とうしろめたさを 持っており、このことがすき間を解消することの難しさと直結していると感じられる。つまり私自身には見えなかったさまざまなすき間があり、このことで私が多くの人を傷つけてきたが、おそらくこのことは私にさまざまな意味でマジョリティ属性を持つということ、それゆえに困難な位置にいる人の事情を感じ取ることができなかったということと関わる。(p. 241-242)

一つまちがいないのは、マジョリティ側が自分の特権性に気づくことの難しさであり、気づけていない他者の苦境がつねに残ることであり、気づかないことによって「私がつねに誰かを傷つけているのではないか」という恐れを持つ必要があるということだろう。つまり「傷つきやすさ vulnerability」ではなく「傷つけやすさ」こそが問われる。(p. 247)

 この演習ではしばしば vulnérabilité を話題にしてきただけに、村上氏がいう「傷つきやすさ」という言葉には学生たちは皆かなり強く印象づけられていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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