内的自己対話-川の畔のささめごと

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儚き憂き世に残されたものとして ― 和泉式部挽歌群を読む

2014-11-24 21:23:37 | 読游摘録

 和泉式部には最初の結婚相手である橘道貞との間に女の子が一人いた。その子の将来を見届けるためにも、出家などはできないと、憂き世にとどまり、ついには敦道親王の屋敷に召人という屈辱的な立場で入ることを決意するに至るが、この一人娘が後の小式部内侍である。当時の大スキャンダルであった母親の宮入り当時、七、八歳であった少女がそれをどこでどのように受け止めたのかは知る由もない。
 敦道親王の宮邸での日々は、そこに集う当代の文化人たちとの交流によって、歌人としての式部にも大きな影響を与えたことであろうが、そのような表向きは華やかであったでもあろう宮邸生活も四年足らずで、宮の死ととも終りを告げる。残された式部は、宮邸から立ち去り、心から奔出したであろう身を裂かれるような深い悲しみに、後に「帥宮挽歌群」と呼ばれるようになる独詠歌群として詩的形象を与える。全部で百二十二首を数える、故宮を思慕するその悲痛な調べは、読む者の心を打たずにはおかない。「師走の晦の夜」との詞書をもつ一首を引く。

なき人の来る夜と聞けど君もなしわが住む里や魂なきの里

 十二月晦の夜、死者の霊を祭る習俗が当時あった。式部は、その夜だけでも、宮の魂が身をまとって人として帰ってきてほしいと思ったのだろう。叶うはずもない願いであり、自らの魂さえあくがれ出てしまったように生気ない景色の中に式部は佇む。「なき」「なし」「なき」との三度の繰り返しが喪失の悲嘆の深さを響かせる。
 『日記』もこの挽歌群作成とほぼ重なる時期に執筆されたとするのが大方の専門家の見方だが、当時、文学的創作行為が個人の内発的動機にのみ因るものではなく、女性にとっては「後宮」という読者共同体を前提にしてはじめて成り立つものであったとすれば、『和泉式部日記』についてもそれを想定する必要があることになる。実際、故宮の逝去後二年ほどして、式部は中宮彰子のもとに出仕する。道長の慫慂によるとされる。この一条天皇中宮彰子後宮が『日記』誕生の母胎であったのかもしれない。
 この式部の出仕には、先に述べた一人娘も一緒に出仕したと考えられている。三十歳を過ぎて、十二歳の娘とともに、紫式部や伊勢大輔ら錚々たる才媛が仕える彰子後宮での生活が始まった。式部はそこで道長らから歌人として高く評価される。
 その後、藤原保昌と再婚し、式部の後半生は比較的穏やかに過ぎていこうとしていたかに見える。ところが、式部四十八歳頃と推定される年に、若くして掌侍の職にあった期待の娘の小式部内侍を出産がもとで失う。生まれたばかりの子を残してのその死は痛ましい。最愛の故宮の死から十八年後のことである。この度の母としての悲しみの深さは、小式部内侍挽歌の連作として刻印される。その内の痛切なる一首。

などて君むなしき空に消えにけん淡雪だにもふればふる世に

 娘の死後、式部が記録に現われるのは、その二年後の万寿四年(一〇二七)、九月に薨じた皇太后宮妍子の七七日の追善供養に夫保昌が玉を献上したときに詠歌したのが最後で、以後、歌人として表舞台に立つこともなく、その消息は知れず、没年はわからない。