唐木順三の名著『無常』は、三部構成、第一部が「はかなし」、第二部が「無常」、そして第三部が「無常の形而上学 ― 道元」とそれぞれ題されている。第一部は、主に王朝文学の中に見られる「はかなし」の意味の展開を追っている。その序で、唐木は、同書全体を貫く問題意識について簡潔に述べているが、次のように結論を先取りしている。
「はかなし」という言葉がふくんでいる王朝的な真理と情緒が、王朝末から中世にかけて、「無常」に急勾配で傾斜していく跡を証してみたいのである。
その次の段落では、「無常」についてこう言っている。
「あはれ」と違って「無常」は、今日では世界的な意味をもつ、またもちうる内容があると、私は思う。
この本の初版が出版されたのは、1964年、今からちょうど五十年前である。唐木の目には、世界中がニヒリズムに覆われていると見える。しかし、その超克を恒常的なるものに求めることはもはやできないこともわかっている。歴史が私たちに教えるのは、その途は何かを絶対化することでしかなく、遅かれ早かれ挫折するしかないからだ。「迂路をたどるべきではない。無常なるものの無常性を、徹底させるよりほかはない」と唐木は言う。この思索の方向性は、同じく西田と田辺の弟子であった西谷啓治によっても共有されていた。
私は、「無常」の徹底化へと深化する唐木の思索の方向を辿る前に、その思索の出発点にもう一度立ち戻ってみたいと思う。つまり、王朝期の女流文学に表現された「はかなし」の意味を、今一度原テキストそのものを読み直しながら、それを人間存在の根本的様態として考えてみたいと思うのである。
『無常』第一部「はかなし」の第一章は、「「はかなし」という言葉」と題され、「私に、「はかなし」についての思考の端緒を与えたのは、岩波の日本古典文学大系第二十巻所収の『和泉式部日記』の冒頭、「夢よりもはかなき世のなかを嘆きわびつつ明かし暮らすほどに」云々の補注であった」と始まり、『日記』の校注者である遠藤嘉基によるその補注を引用する。
その補注を読んだとき、唐木は、「あっと息をのむ思いがした」と言う。時枝誠記『国語語学言論』の形容詞論を前提としているその記述が、「はかなし」の意味についての再検討を唐木に迫るものだったからである。それまで、唐木は、「はかなし」は、「あはれ」に比べて、客観的属性が勝った形容詞だと考えていた。つまり、言語主体の情意性よりも事態の状態性を表現することに比重がかかった言葉だと思っていたという。ところが、遠藤の補注によれば、「はかなし」にも同じく言語主体の情意性が込められているということになる。
私はこの問題を、さらにもう一歩深いところから考えてみたいと思っている。つまり、私にとっての根本的な哲学的概念である「根源的受容(可能)性 Passibilité」という観点から考えてみたいのである。情意性か客観性かというすでに二元論的な立論から出発するのではなく、すべての言語的分節化は「根源的受容(可能)性」から始まると考えたいのである。
この「根源的受容(可能)性」において、すべての〈形〉と〈心〉がそれとしてそれ自身に与えられるのであるとすれば、まるで情意のない〈形〉もまるで姿形もない〈心〉というものはそもそもなく、客観的な対象と主観的な感情の「分裂」は、原初の分節化後の抽象化の結果だということになる。
和泉式部が深い嘆息とともに「はかなし」と言わざるを得なかったのは、鋭敏極まりないその詩的感受性が、世界の原初の分節化の「はかなさ」に我知らず感応せざるを得なかったからではないであろうか。とすれば、『日記』に景情一致の歌文融合体によって綴られたのは、その「はかなさ」にまで到達してしまった式部の詩魂が見た景色・気色にほかならないであろう。