内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「ながむる」女の夢よりも儚き世の中の物語 ― 『和泉式部日記』冒頭について

2014-11-23 19:21:48 | 読游摘録

夢よりもはかなき世の中を嘆きわびつつ明かし暮すほどに、四月十余日にもなりぬれば、木の下暗がりもてゆく。築地の上の草あをやかなるも、人はことに目もとどめぬを、あはれとながむるほどに、近き透垣のもとに人のけはひすれば、誰ならんと思ふほどに、故宮にさぶらひし小舎人童なりけり。

 『和泉式部日記』の有名な冒頭部分であるが、作者のそこでの姿勢は、室内から邸内の庭の景色・気色を「ながむ」ことである。この日記には「ながむ」が頻出する。式部はよく「ながむる」女性であった。
 その「ながめ」が心模様そのものとして叙述され、そこに配された和歌によってその都度の情景が詩的に結晶化されていく。夢よりも儚き男女の仲さらには人々が織りなす世の中そのものを「ながむ」という姿勢が通奏低音のように日記全体を貫き、その上に心の底深いところから沸き起こってくる詩的感興が煌く。手厳しい紫式部の式部に対する批判的な評言の中でも、「口にまかせたることどもに、かならずをかしきひとふしの、目にとまるよみそへはべり」と認めざるを得なかった所以である。かくして、景情一致の歌文融合体が生まれた。
 この冒頭も、十ヶ月ほど前の前年六月十三日に薨去された為尊親王のことを以来繰り返し想い返しつつ、嘆き暮らし、度々放心したかのように、このように「ながめ」てきた式部を容易に想像させる。かくするうちに、ふと気づけばもう初夏、それまでにもすでに外の陽射しが眩しい日も少なくなかったであろう。しかし、式部の眼差しは、陽によって明るく照らされた外光の表面ではなく、その陽の下、輝きを増す樹々の緑にでもなく、それらの明るさと対比的に影を濃くする「木の下」、木陰に惹き寄せられる。あるいは、人が気にも止めないような築地の上の青草を眺める。
 その陰影を濃くする眺めの中に、新しい物語の始まりを予感させるように、亡き宮にお仕えしていた小舎人童が透垣の陰から登場する。この箇所に時刻を示す語句はないが、「この時代の一日の開始は、夕方からである」(新潮古典集成版野村精一校注『和泉式部日記 和泉式部集』「解説」一五六頁)とすれば、そろそろ陽が傾き始めた夕刻とするのが妥当であろう。