内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「空の名残」考 ― バシュラール『空と夢』とエリアーデ『聖と俗』を手掛かりに(3)

2014-11-19 17:49:59 | 哲学

 昨日からの続きで、なぜ、地上の出来事や係累からは離脱できたとしても、「空の名残」にだけは心惹かれてしまうということが起こるのか、という問題について、さらに考えてみよう。今日の記事でそのための手掛かりとするのは、ミルチャ・エリアーデの『聖と俗』の一節である。

L’homme prend connaissance du sacré parce que celui-ci se manifeste, se montre comme quelque chose de tout à fait différent du profane. Pour traduire l’acte de cette manifestation du sacré nous avons proposé le terme hiérophanie, qui est commode, d’autant plus qu’il n’implique aucune précision supplémentaire : il n’exprime que ce qui est impliqué dans son contenu étymologique, à savoir que quelque chose de sacré se montre à nous.

Le sacré et le profane, Gallimard, « Folio essais », p. 17

 人が聖なるものを認識するのは、それが俗なるものとはまったく異なったものとして己自身を顕すからである。この聖なるものの顕現作用を言い表すために、エリアーデでは、 « hiérophanie » という自身の造語を導入する。語源的にはいずれも古代ギリシア語の « hieros »(聖なるもの)と « phainein »(輝かせる)とに由来するニ要素からなっている。日本語の定訳があるはずであるが、今手元では確かめようがないので、「神聖顕現」と訳しておく。私たちに「自ら顕現する聖なるもの」ということである。

C’est toujours le même acte mystérieux : la manifestation de quelque chose de « tout autre », d’une réalité qui n’appartient pas à notre monde, dans des objets qui font partie intégrante de notre monde « naturel », « profane » (ibid.).

 神聖顕現は、つねに同じ神秘的な作用で、「まったく他なるもの」― 私たちの世界には属さない現実の何かが私たちの「自然で」「俗な」世界を構成している事物の中に顕現することである。

La pierre sacrée, l’arbre sacré ne sont pas adorés en tant que tels ; ils ne le sont justement que parce qu’ils sont des hiérophanies, parce qu’ils « montrent » quelque chose qui n’est plus pierre ni arbre, mais le sacré, le ganz andere (ibid.).

 ある石や木が神聖なるものとして崇められるのは、それらが神聖顕現だからであり、それらが石でも木でもなく、神聖なもの、まったく異なったものである何かを「見せる」からである。
 以上のような神聖顕現の考え方に従って「空の名残」とは何かを考えてみよう。
 私たちがもし空に現われる移ろいやすい季節ごとの美しさに他のものには感じない神秘性を感じるとすれば、それはそこに〈まったく他なるもの〉が顕現しているからではないのだろうか。この地上世界には属さない〈まったく他なるもの〉が、例えば、暮れやすい晩秋の夕陽に染められた茜色の空として、あるいは嵐が去った後の洗われたような青空に吹く風として、顕現しているのならば、それらの「空の名残」に対して、魂があくがれるがごとくどこまでも惹かれてしまうということが世捨て人の身に起こるのは、むしろ「あらまほしきこと」とさえ言うことができるのかもしれない。