『蜻蛉日記』を構成する上中下三巻の執筆年代と成立の順序については、専門家の間でも諸説あり、それらはすべて決定的な書誌的証拠不在故に、その推定の根拠は主にテキストそのものの読解に拠らざるを得ず、それだけ諸家の作品解釈の違いをそのまま反映する傾向がある。それに、「執筆に先立つ原資料、すなわち歌稿・消息文・折々にしたためた紀行メモ等の存在が考えられ、それらを整理した素稿、さらに成稿、成稿の削除加筆といった段階も予想され、単純な成立年次の特定は困難であろう。諸家の議論が多岐に分かれ、定説を見ないゆえんである」(新潮古典集成版解説、三三九-三四〇頁)ということであるから、今後この問題が決着を見る可能性は極めて乏しいと言わざるをえない。
この問題は、各巻の執筆動機という問題とも不可分に結びついており、これらの問題に対する答えがそのまま上巻の序と跋の解釈の方向性を決定している。実際、私の手元にある三つの注釈書、新潮古典集成版(犬養廉校注)、岩波の新古典文学体系版(今西祐一郎校注)、角川ソフィア文庫新版(川村裕子訳注)は、序の後半部に対してそれぞれ異なった解釈を提示している。
新潮古典集成版の傍訳と本文と頭注とを組み合わせると、「当今もっぱら流行している古物語の端などを見れば、みな絵空事ばかり、それでももてはやされている。人並みでもない身の上まで書いて日記とすれば、きっと風変わりなものになろう。世間の人、古物語の読者たちが、身分の高い殿方(の夫人たる者)の、実際の生活はどんなものかと、尋ねたら、そんな時はこれを実例にしてほしい、と思うのだが、過ぎにし年月ごろのことも、うろおぼえになってしまったので、これでよかろうという適当な記事が多くなってしまった」(九頁)となる。
新古典文学体系版では、その脚注を組み込んで同箇所を訳すと、「世の中に数多ある昔物語の類を覗けば、世間でよくある作り事でさえそうなのだが、まして人なみでもない身の上を日記に書くなどというのは、突飛に見えることだろう。この上なく貴い身分の人とはどのようなものなのか、尋ねようとする際の一例にも、と思うのだが、過ぎにし年月ごろのこともおぼつかなかりければ、そのままにしておいてよい、つまり、日記に書かなくてもよいようなことが多くなってしまった」(三九頁参照)となる。
角川ソフィア文庫版は校注者による現代語訳付きなので、それをそのまま引く。「世間に流行している古物語の端々などを覗いてみますと、どれもこれもいい加減な作り事や絵空事。こんなものでもはやるのだから、人並みでない身の上でも日記として書き綴ってみたら、さぞ珍しい、と思われることでしょう。この上もなく高い身分の人の妻、それはいったいどのような生活なのかしら、と尋ねる人がいたら、そんな時の答えの一例にしていただきたいと思います。それでも、過ぎ去った多くの長い年月のことは、きれぎれの記憶ではっきりと覚えているわけでもなく、日記にかかなくてもよさそうな記事も多くなってしまいました」(二三三頁)。
新潮版は、「他愛もない(と作者には思われる)古物語でも世間の人は面白がるのだから、私の身の上を書けば、たとえそれが人並み以下だとしても、案外面白い読み物になるだろう。身分の高い殿方とその夫人たちの生活に興味がある人たちにとっては、一つの例として見せることができるかと思う」という解釈になるだろうが、これだと序前半の謙遜した言い方に反して、作者自身をも高い身分の階級の側に置き、そういう自分を取り巻く生活ががそれ以外の階層の人にも面白かろうという、かなり驕った態度とも取れるような文意になってしまう。
岩波版は、校注者今西氏による解説も併せて読まないとよくわからないのだが、その解説よれば、「序・跋の読み方としては、まずそこに著者の卑下謙遜を読みとらねばならない」から、「天下の人の品たかきやと問はんためしにもせよかし」の一句の中の「天下の人の品高き」には、作者自身は含まれてはならず、まずは夫の兼家、さらには日記に登場するその他の貴顕を指していると解釈する。この解釈は、「和歌を主とする『蜻蛉日記』上巻が、いわば『兼家集』に相当する役割にも堪えうる作品」であるという大胆な想定に基づいており、『蜻蛉日記』上巻は兼家の要請により書かれたという仮説にまで加担している。
角川版は、現代語訳を読めばわかるように、自分の生活の記録もきっと興味あるものでありうるだろうという、「物語ではなく日記という新しいジャンルを書こうという宣言が高らかにされている」(『新版 蜻蛉日記Ⅱ』解説、二九七頁)という解釈である。
私はといえば、もちろん専門家でもないのであるから、これらの諸家の説に対して、根拠を挙げて反論することなどとてもできないが、上記三説はいずれも十分に説得的ではないというのが正直な感想である。
それはともかく、私自身かねてより考えていたのは、紫式部や清少納言と違って宮廷社会での社交性を持たない「家庭女性」であった道綱母の内省の記録である日記が広く読まれるようになった契機はどこにあるのかという受容の問題である。当時から和歌の名手として知られていたとしても、誰かの協力あるいは援助なしに、「あるかなきかの心ちするかげらふの日記」が広く読者を獲得するとは考えにくい。もちろん一旦評判を得れば、その後は作品自体の力によって後代の読者を獲得していったとは言えるだろうが、最初にこの日記を世に知らしめたのはどのようなきっかけだったのだろうか。この問いに対する答えは、『蜻蛉日記』の執筆動機の問題とも密接に関連している。