内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

憂き景色 ― 自己省察としての『紫式部日記』

2014-11-29 17:55:27 | 読游摘録

 秋のけはひ入り立つままに、土御門殿のありさま、いはむかたなくをかし。池のわたりの梢ども、遣水のほとりの草むら、おのがじし色づきわたりつつ、おほかたの空も艶なるにもてはやされて、不断の御読経の声々、あはれまさりけり。やうやう凉しき風のけはひに、例の絶えせぬ水の音なひ、夜もすがら聞きまがはさる。

 この『紫式部日記』冒頭の一節には、特別な思い出がある。ストラスブール大で初めて教壇に立った今から十六年前に担当した授業の一つが学部三年生を対象とした古典入門であった。その頃は日本学科にはまだ学部しかなく、修士課程も博士課程もなかった。最終学年の学部三年生も、その年は確か全部でわずか六人であった。その学生たちとこの一節を読んだ。
 土御門殿の邸内の秋の景色を構成する音・声・光・色・風・水が見事に組み合わされた描写を一語一語丁寧に辿りながら、その景色を眼前に見るかのように再現できるように説明に努めた。それ以来もう何度読み返したか知れないが、今日、来週の授業のために改めてこの箇所を読み直して、やはり感嘆せざるを得なかった。
 しかし、今回の授業では、平安期の女流作家・歌人の「自照」あるいは「内省」がテーマであるから、取り上げる箇所は、紫式部がふと見せる心の中の記述が主になる。例えば、次のような一節である。
 敦成親王誕生で沸き返る土御門殿への一条天皇行幸が間近に迫り、その主家の晴事の準備に皆が忙しく立働いている。ところが、紫式部は、朝霧の中、菊が色とりどりに美しく咲いている庭を眺めながら、ふとどうしても晴れやかな外界とずれてしまい、心が沈んでしまう自分に向かって、「なぞや」と強い調子で問いかける。

めでたきこと、おもしろきことを見聞くにつけても、ただ思ひかけたりし心の引くかたのみ強くて、もの憂く、思はずに、嘆かしきことのまさるぞ、いと苦しき。いかで、今はなほもの忘れしなむ、思ふかひもなし、罪も深かなりなど、明けたてばうち眺めて、水鳥どもの思ふことなげに遊びあへるを見る。

水鳥を水の上とやよそに見む
 われも浮きたる世を過ぐしつつ

 かれもさこそ心をやりて遊ぶと見ゆれど、身はいと苦しかんなりと、思ひよそへらる。

 外界の素晴らしい様子を見ても、心が浮き立つどころか、心を支配する思いに強く引かれて、気が重く、つまらなく、ため息ばかりが出る。それが自分でも苦しい。そんな思いも仏道からすれば罪深い執着であり、だから振り払おうとするのだが、夜が明ければため息をついて、水鳥たちが無心に遊んでいるのを見ても、今の自分に引きつけて、ああ無邪気そうに見えても、水鳥たちだってきっと苦しい思いをしているだろうなどと思ってしまう。
 沈みがちな心が邸内の景色として広がっている様が見事に叙述されている一節である。式部の個人的心情を吐露すことをその第一目的としてない『紫式部日記』においては、卓越した筆力による景色の描写が美しければ美しいほど、式部の心の苦しみの痛切さもまたそこに表現されている。そこに見られるのは、『和泉式部日記』のような感情の奔出の風景としての詩的形象化ではなく、風景の中に翳りある眼差しによって分節化された自己省察である。