日本でちょうど今頃の季節に恵まれるような秋晴れの一日だった。家に居るときはほとんどその前で過ごす書斎の机の向こう側には、ときどき書物から顔を上げて窓外を眺めると、広大な隣家の常緑樹らが陽射しを浴びながら心地よさげに風に揺れている。その間を左右からさっと直線を引くように小鳥達がときどき横切る。冬青や林檎の木の枝がわずかに撓るとともに小さな黒い影が枝の上を素早く移動する。黒毛の小栗鼠である。巧みに枝を伝って樹から樹へと飛び移り、あっという間に視界から消え去ったかと思うと、また別の樹の枝の上に姿を現す。冬眠する前の天来の好天を楽しんでいるかのようである。
来週火曜日十一月十一日は第一次世界大戦休戦記念日に当たり、国民の祝日であるから、当然その日の修士の演習もない。それで、今週末は、いつもに比べて授業の準備に割かなくてはならない時間が少なくてすむ分、時間に余裕がある。しかし、だからこそ、他の仕事を先に進めるためにその時間を有効利用しなくてはならない。その内容を記事にするのはまだ尚早。無理矢理に記事にしようとすれば、かえってその仕事を遅らせてしまいかねない。もう少し考えが練れてくるのを待つことにする。
先週のシンポジウム以後、現代の政治哲学の分野における方法的〈寛容〉の問題を考え始めたが、これについても、少なくとも数冊の古典と現代の主要文献を読んでからでないと、まとまった見解は述べられない。来年以降の課題になる。
それに先立って、先月二十六日の記事で話題にした古代哲学におけるパレーシアについてよく考えておきたい。手がかりは言うまでもなくミッシェル・フーコーである。コレージュ・ド・フランスでの最後の二年間の講義は、まさにこの問題を巡って展開されている。
今から三十年前、フーコーがその六月に亡くなった一九八四年の二月から三月にかけて行われた最後の講義の講義録 Le courage de la vérité. Le gouvernement de soi et des autres II. Cours au Collège de France 1984, Gallimard/Seuil, 2009 の邦訳は、二年前に筑摩書房から出版されており(その訳者慎改康之氏の訳者解説がこちらで読める)、その際に柄谷行人が書評を書いている。この解説と書評を読んだだけでも、パレーシアとは、勇気をもって「真理を語る」ことだとはわかる。しかし、同講義初回の前半で、フーコーは、パレーシアはまた、「自分を傷つける真理を聴いて、それを真として受け入れる聴き手の勇気」でもあると言っていることを忘れないようにしたい。
この後者の意味でのパレーシアは、単に師の痛棒のような言に弟子として従順に聞き従うということに還元される事柄ではないであろう。人に言われた一言で翻然と悟るということとも違うであろう。それは、自分を傷つける真理を聴き、それによって自分の誤りを自覚し、その自覚に基づき、自己の改訂を具体的に段階的に実践していく方法的態度として身に付けられてはじめて、日々の生活の中で意味を持ちうるようなものではないであろうか。とすれば、パレーシアは、持続の勇気でもなくてはならないだろう。