内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

L’art d’être imparfait (不完全である技法)― 発表の組み立て方について

2014-11-20 18:04:17 | 講義の余白から

 講義をするのが長年の商売であるから、それなりにその構成の方法をあれこれ考え、工夫し、実践しては、修正を加えるということを繰り返してきて、今では講義の組み立てに難儀することはまずなくなったが、フランスで初めて教壇に立った十六年前は、それはもう準備が大変であった。週に四コマ、内容のそれぞれまったく違う授業を担当したのであるが、一コマの準備に丸一日かかった。当時はフランス語も怪しく、特にその場での即興というのはまず無理であったので、授業内容はほぼすべてノートに書きとめ、途中で挿入する冗談まで書き留めておいた(その冗談が滑った時は、その後の教室の雰囲気が悲惨であったことは言うまでもない)。四コマの準備で四日かかり、授業が二日間あったから、一週間のうち六日は完全に授業とその準備とのために費やされ、その疲れで日曜日はぐったりとしていた。まあ給料をもらいながら、フランス語の特訓をしていたようなもので、今から思えば誠に有難い話であるが、当時はほんとうに必死であった。
 二年目は大分楽になったが、それでもなかなかその場で機転を利かせることができるほどフランス語が自由になるようになったわけではなかった。その後何年かの間、教えながら博士論文を準備し、その過程で発表する機会にも度々恵まれ、話すことには慣れていったが、そういう慣れとは別に、ふと授業の準備が楽になったきっかけがある。
 それは、話す内容をあえて不完全にしたほうが、授業がうまくいくということに気づいたときである。それまでは、自分が準備してきたことをとにかくできるだけ順序立て、しかも隙のないように構成しようと努力を傾注していたのであるが、それをやめたのである。下調べはもちろん入念にするとして、教室での説明にはあえて「穴」を何箇所か作り、学生たちがそこで「?」となるようにしたのである。
 そうすると、当然のごとく、その箇所で学生からいかにもという質問が出る。こっちは先刻ご承知である。待ってましたとばかりに、即座に、「Bonne question ! (いい質問ですね)」(これはフランス語では当たり前の表現で、けっして池上彰の真似ではない。念の為に)と反応し、立て板に水と答えるわけである。学生は褒められて嬉しいし、こちらの答えに納得する。他の学生たちも「なるほど」という顔をする。こういうことが数回、授業中に繰り返されることで、こちらの話にリズムが生まれ、学生たちとの間に相互作用が発生して、授業が活性化するようになる。
 まあ、こんなこと、当たり前のことで、皆知っているし、実行していることだろうけれども、自分自身の経験として、「なんだ、こうすればいいのか」と気づいたときは、すっかり気分的に楽になったものである。
 今日の修士の合同演習は、これまでと同様、学生たちの発表だっのだが、どうしても「ベタ」に話す傾向があり、これだと聞き手が飽きてしまうし、何が大事なのかわかりにくい。そこで発表後の講評の中で、上に書いたような私自身の経験を話して、発表がその後の活発な議論を引き起こすようにするためには、「不完全である技法(l’art d’être imparfait)」を身につける必要があるという話をした。
 学生たちの反応は、「先生、自分たちの発表はすでに不完全ですから、それをあえてさらに不完全にすることは逆に難しいと思います」という感じであったが、確かに、ただ「穴」だらけにすればいいというものではないから、彼らにはまだ難しいテクニックかも知れない。しかし、これも修行である。
 来週が最後の発表である。お手並み拝見いたそう。