転機において、「したい」と「ねばならぬ」の抗争の次に来るのが、「しうる」「しえない」「すべきである」「してもよい」などの発生論的条件である。
例えば、極度の辛苦や疲労に打ちひしがれているとき、私たちは「もうこれ以上できない、無理」と溜息をつくだろう。しかし、この「できない」は、必ずしも厳密に客観的な判断ではない。ほんとうに限界に達しているかどうか、私たちはまだ疑ってみることができる。それでもやはり「できない」と私たちが言い張るとき、実のところは、「もうしたくない」というパトスが「できる」範囲を限定してしまっていないだろうか。
もちろん本人はそのことに気づいてはない。言い換えるならば、私たちの「できる」範囲の限界についての「客観的な」判断は、実は、理屈抜きの「したい」というパトスによって限界づけられている。つまり、「できる」とは、実のところ、「できるようでありたい」ということなのだ。
もちろん端から出来ない相談というのはある。例えば、十トントラックを一人で素手で持ち上げてみろとか、百メートルを五秒で走れとか、この種の要求は完全に人間の「しうる」範囲を超えており、いくら私たちが「したい」と思っても無理だ。これは端的に「できない」ことであって、誰もそれに文句は言えない。
逆に、傍目から見て、そして一般的な条件からして、「できて当たり前」のことができない人を前にして、私たちは、「「したい」と思えばできるはずだ、できないのは、その「したい」という気持ちがお前に欠けているからだ、やる気を出せ」などと非難しがちではないだろうか。
しかし、この「やる気のない」ような不活性状態は、本来私たちを生き生きとさせるはずの「したい」というパトスが、「できない」というロゴス的判断によって萎縮させられ、「したい」という気持ちがそもそも起こらない、あるいは起こりにくくなっているという倒錯状態に陥っていると見るべきではないのか。
人間の存在構造がロゴスよりもより深い次元でパトス的であるとしても、いつもそのことが顕在的に私たちに示されているわけではない。むしろ、自分では冷静に「理性的に」判断して行動しているつもりでも、その判断を動機づけているのは、実のところ、自分ではよく制御できない情念であるということもよくあることではないだろうか。しかし、見たところ異論の余地なく、「ここはこうするのが当然でしょ」と私たちが言えるときには、パトスは働いていないか、あるいは副次的な役割しか果たしていないように見える。
そのようなロゴスを基調とした私たちの「日常的な」生活の場合とは逆に、パトスが私たちの心に顕在化するときがある。それは「転機」が訪れたときである。そのとき、私たちの心は、「したい」と「ねばならぬ」との抗争の劇場となる。
例えば、思いもかけぬ仕事のオファーがあったとしよう。それは自分にとってとても魅力的な提案だ。自分の能力を存分に試す仕事ができそうだ。しかし、それには今の安定した職を捨てなくてはならない。でも、家族は養わなければならない。このような葛藤を引き起こすのもパトスだし、その渦中にあって、「これだ」と選ばせるのもパトスだ。葛藤を孕んだこの選択過程を経て、私たちは再び「存在の秩序」の中に戻っていく。
つまりパトス的なものは「したい」と「ねばならぬ」との始源だと定義することができる。パトス的なものがそのつど特定の「したい」や特定の「ねばならぬ」を創始したのであって、このことを確認した時には、既に存在的に実在するものの認識への移行、事象への移行が再び開始されている。(294頁)
死すべき存在であることが生きるものに与える基礎的色調が受苦であるというような「感情的」認識は、生物学的研究には不必要であるかも知れない。
しかし真の研究者の道を辿る者、また本書における探究の歩みにこれまで従って来た者は、このようなペシミズムの色調が度外視しえないものであることをわきまえている。われわれの言うのは、感官の生理学の中には痛みの生理学も含まれねばならぬということだけではない。生命とは一つの過程なのではなく、「受苦的に蒙る」もの erlitten でもあるということを明確に表明することなしには、有機体や生命についての真理に即した物の言い方はできないのだという洞察を不可避ならしめること、これが悟性の要請である。生命とはただ自己自身を措定し、能動的に働くだけのものではない。生命はまた、存在せねばならぬというはめにおちいっているのであって、その限りにおいてまた受動的でもある。この点に関してわれわれの述べるところは、存在的なるもの Ontisches のみにかかわるのではなく、パトス的なるもの Pathisches にかかわっている。そして生命のパトス的な属性については、その存在的属性についてと同じ仕方では論じられないことは明らかである。(291頁)
いっさいのパトスから解放され、ただロゴスにのみ従って在るものは、もはや生命ではないだろう。個々の生命は、ただそこに在るのではなく、自らの意志で能動的に行動することによってのみ己を規定するものでもなく、ある時ある処に在ることそのことを不可避的に否応なしに被っているかぎりにおいて、根本的に受動的な存在であり、したがって、生命はそのようなものとして総合的に探究されなければならない。こうヴァイツゼッカーは考える。
私たちの日々の一挙手一投足は、物理の法則に従ってそれが為されるまさにそのことによって、パトスを目に見える形で表現し続けている。
聳え立つ山脈の威容を目の前にして、私たちは崇高の念に打たれ、言葉を失うことがある。と同時に、それに対する自己の存在の頼りなさ、生き物の命のはかなさを思い、胸を締めつけられるような感情に襲われることもある。生命は、あたかも永遠の自存の形象であるかのような自然の威容を前にして、ただ己の移ろいやすさを嘆くことしかできないのだろうか。
ヴァイツゼッカーは、しかし、実のところは永遠に不動ではない自然の威容に対して、ものに触れ動かされざるを得ない危うき生命の優位を確信している。そして、その優位を保証する「最も確実な事実は死である」と決然と主張する。
生命の諸形像が転変するすばやさは、悠容たる連山の姿にてらしてみるとき、愕然とするほどのはかなさを如実に示している。だが反面、このような天変の中にあってなお生命が存続しているということ、このことが生命をして、連山でありながら場合によっては平らに整地されもしうるような一切のものの上位に立たしめる。このような生命の優位を保証する最も確実な事実は死である。しかし、死は一つの出来事ではない。死とは包括的な秩序であり、死の反照は一切の転変、一切の没落、一切の眠り、一切の別離の上に宿っている。死は、法則として、生あるものの体験の色調をも規定する――それは受苦 Leiden の色調である。(290頁)
死は生の中の一つの出来事ではない。ある一つの生の最後に生じる出来事ではない。死は有限の生の一切を超え包んでいる。その一点において、生命は、死を知らぬ自然に対して優位に立つ。その死が私たちの生に与える基調は、受苦である。
受苦は、生あるものの存在の欠陥の指標ではない。ロゴスによって克服されるべき不幸な状態ではない。ロゴスがそこにおいて働く「場所」にほかならない。ロゴスを超え包むこの「場所」がパトスである。この根本的な認識が、ヴァイツゼッカーをパトゾフィー(私はこれを受苦智学と訳したいのだが、その理由は2013年9月5日の記事で述べた)の構想へと導く。
ある食べ物が私たちの目の前に置かれているとしよう。それを見て、そしてその匂いを嗅ぐ。そのとき、その匂いがまさにその食べ物から発している匂いであり、それが視覚からの情報と協和的であるとき、私たちは、その知覚にしたがって、それを食したり、あるいはそれを食することを拒んだりする。これは私たちが毎日それと意識せずに繰り返していることである。この協和的知覚像が成り立たないとき、私たちの生存は脅威に曝される。
これは食べ物の例に限られたことではない。私たちが毎日それと意識せずに繰り返していること、例えば、ふらふらしたり躓いたりせずに歩くこと、ある物をそれにちょうど必要な力で手に取ることなど、数え上げればきりがないが、これらはすべてこの協和的知覚世界の中でのことであり、その世界に亀裂が入るとき、私たちの生存は危機に曝される。
この協和的知覚世界は何に基いているのだろうか。この問いに対するヴァイツゼッカーの答えは以下の通りである。
器官が栄養物の匂いを信頼しうる仕方で伝えるとき――つまりその栄養物自身がその匂いを発散し、この対象に合致した知覚が生じるとき――生存の保証が確立される。これに反して同一の匂いが別の物質から発散されたり、またはその匂いがしているのに器官が別の感覚を生み出したりする場合には、生存が脅威に曝されることになる。地球という重力の場の中で頭部がいかなる加速度と傾斜を示すかを前庭器官が信頼しうる仕方で伝え、これに対して、われわれが転倒したり衝突したりしないような仕方での運動が行われるとき、生存はその身体平衡に関して保証されることになる。しかしこの保証は常に、物理学的法則に従う環界と有機体の自己運動との鏡像的対応に基いている。この対応が実現されている限り、しかしただその限りでのみ、連続性としての生命は可能なのである。(290頁)
この鏡像的対応が成立しているときはじめて、「自我もまた自らの環界の中で安全と確実を保証される」(同頁)。
生物学的行動を反射生理学的説明に還元できないのは、事物の本性からしてそれが不可能だからだということをヴァイツゼッカーは神経生理学的研究によって明らかにした。
心と物的自然との外面的-実体的な二元論を主体と客体の対極的に結合した一元論に置き換えたわれわれにとっては、そのような教義は事物の本性からして可能ではありえない。つまり鳥瞰図的にすべての行為の組合せを展望しうるような高みは存在しない。われわれは自ら常に新たに生命の運動の中へ巻き込まれながら、それを断片的にでも捉えるように務めねばならぬ。しかし結果としての主体客体の出会いにとっての前提条件が満たされるためには、主体の側からの働きで現出するもの、即ち運動と知覚が、客体の側からの働きで現出するもの、即ち物的自然の合法則性と互に出会わねばならない。この出会いは、有機体の行為が外的な自然現象と適合し、逆に自然現象が有機体の諸条件に当てはまる時に起きる。その結果、ダーウィン以来生物学が適応 Anpassung と呼んでいる事態が生じることになる。(289頁)
それ自体で独立に存在する主体も客体もない。主体が主体でありうるのは、客体へと運動と知覚を通じて働きかけるかぎりにおいてであるが、それだけではまだ必要条件を満たしただけである。その働きかけが客体の合法則性に適合しているときはじめて、主体は主体であり、客体は客体でありうる。私たちは生命の運動の中に巻き込まれつつあるかぎりにおいて主体としての生成過程にあり、その過程はそれが自然現象の合法則性に適合しているかぎりにおいて持続する。
昨日まで五回に渡って摘録してきたヴァイツゼッカー『生命と主体』と同時に2001年12月に購入した『ゲシュタルトクライス』(みすず書房、新装版、1995年)は、今版元品切で、アマゾンでは古本に五万円近い法外な値が付けられている。ずっと売らずに持っていてよかったと安堵する。拙ブログで取り上げたくらいでは、大海に一滴ほどの力にもなりはしないが、近い将来に妥当な価格で再刊されることを期待したい。仏訳の再刊も期待したいところだが、まず無理であろう。古本市場に出回るのを気長に待つことにする。
『ゲシュタルトクライス』の最終章第五章はまさに「ゲシュタルトクライス」と題され、それまでの章で展開されてきた神経生理学的研究に裏づけられた知見を基に、ゲシュタルトクライスそのものが考察の対象となっている。同章は三節に分かれているが、その第三節「パトス的範疇、根拠関係、生の円環」は同書の結論部に相当する。今日から数回に渡って、私自身の問題関心にしたがって同節からの摘録を行う。
われわれは、いくつもの行為の連結に際してそれらの行為の結びつきをどう理解すればよいのか、という問題を背負った研究の途上に依然としてとどまっているのである。個々の行為がそれ自体において有している統一性が証明された以上、この結びつき、つまり行為の系列の生成が問題となり、主体の統一ということもこの問題の解決如何にかかっている。あらゆるゲシュタルト形成の統一的な生成が諸行為の継続の中で理解されるとするならば、それはまたゲシュタルトクライス原理の裏付けともなるだろう。心と物的自然との何らかの意味で単に外面的な二元論にかわって、ゲシュタルトクライスとして理解された生物学的行為の中にこそ、真のそして内的な統一性の実例が与えられることになるだろう。(288‐289頁)
ここを読んだだけでも、ゲシュタルトクライスが行為的連関の有機的一元論の根本概念であることがわかる。
「モナドの場所的な多重化」と題された短章(第30章)の中でこの多重化を説明している箇所をまず引用しよう。
モナド間の出会いでは、ある主張とそれに反対する主張、引力と斥力、愛と憎しみ、合体と分離が起こってくる。つまり出会いのなかで多重化が起こり、この多重化を経験するなかで他のありかたへの転移が生じる。つまり全体が二重モナド的 dimonadisch になっているわけである。(167頁)
モナドとは、差し当たり、私たち個体的人間一人一人のことだと考えてよさそうである。この意味でのモナド間に出会いが起こると、両者の間に関係が発生し、その関係は必ず対立する二つの反力間の緊張を孕んでいる。つまり、モナド間の関係はつねに二重なのであって、出会いによって発生した二重性によって、その出会いの中で両モナドは動的に定義し直される。しかし、モナド間の出会いは二重性に終始するものではない。
正義の女神ユスティツィアですら剣を持たねならないのだし、そうなると彼女もモナド間にもともとあるゲームの規則に服さねばならない。ユスティツィアが平和を樹立するその瞬間、彼女自身がモナドなのである。となると今度は、ゲームは三重モナド的 trimonadisch だということになる。これがモナドの多重化ということなのである。(同頁)
個体としてのモナド両者の間に成り立った具体的関係は、それが一回的なものであるかぎりにおいて、別のモナドを形成する。つまり、出会った二つのモナドの間に成り立った平和的な関係も、それが一回的・個別的な「あいだ」であるかぎりにおいて、「平和」という抽象的な純粋概念ではなく、反力間の対立を内包したもう一つのモナドだというわけである。
次に、この短章の木村敏による註解の一部を引用する。
「私」が「あなた/おまえ」と「それ」を共有する、というわけだ。チェスでも碁でも将棋でもなんでもいい。テニスでも合奏音楽でも社交ダンスでもいい。二人が一つの「あいだ」を生み出し、「あいだ」が二人の主体性/主観性を生み出す。そして「あいだ」は「あいだ」自身の法則をもっている。勝負の分かれ目はこの「あいだ」独自の法則によって決まってくる。(168頁)
しかし、この引用の中で挙げられている関係性の具体例のうち、合奏演奏は二人に限定されない(テニスもダブルスがあるが、今はそれは措く)。そこでの関係性は、さらに多重化・多元化し、複雑化するはずである。
一個のモナドの単一存在性、二つのモナド間の邂逅、三つ以上の個体的モナドが分有する関係構造、これらの間にあるのは、単なる量的差異ではなく、互いに他には還元できない質的差異であるとすれば、吉本隆明の共同幻想論に依拠して、それらをそれぞれ個人幻想、対幻想、共同幻想と呼ぶこともできるのではないだろうか。
ヴァイツゼッカー『生命と主体』についての最初の記事をアップしたときは一回だけのつもりだったのだが、今回同書を読み直しているうちにもう少し紹介したくなった。それは、しかし、上から目線で「これくらい知っておかないとね」というような不遜な気持ちからではなく、読み直しながら私自身しばしば考え込んでしまったからで、「これって、とっても大事なことですよねぇ。どう思われます?」と拙ブログをお読みくださっている方々に問い掛けたいという気持ちからである。
昨日の記事で取り上げた短章「身体の基本的なありかたの二面性」の次の短章は、前章を受ける形で次のように始まる。
こんなことを言うと、病気のありかたは二つあるいはそれ以上の種類があるかのように思えるだろうが、それは見かけだけのことで、間違いである。この間違いの起こった瞬間に医学自身が病気になり、病気の原因となる。この動きは歴史の至るところで起こってきたし、その歴史上の位置に従ってそれぞれ独自のかたちで演じられてきた。(181頁)
ここからゲシュタルトクライス概念に基づいて、心身二元論的病因論批判が展開される。病気の原因を心身のいずれかの面に排他的に帰することによって、偽問題が発生する。偽問題にありうる解答は偽の解答でしかない。
凍結してしまった二つのブロックが互いに本当の意味で(われわれの言いかたではモナド的に)出会いうるためには、それぞれすべての部分どうしがそこで出会って、完全に解け合ってしまわねばならない。それによってはじめて「部分」とは何であるかがわかるのだ。(182頁)
この引用の中で言われているそれぞれの部分どうしが出会う「そこ」、それがゲシュタルトクライスである。病気の治療は、それぞれのゲシュタルトクライスにおいてなされるべきであり、病因を還元主義的に身体あるいは精神に一元的に帰し、それに対して普遍的な処方がありうるかのように対処するのは、ゲシュタルトクライス概念に基づくならば、治療として根本的に誤っている。
だから、病気が二つの面をもっているのではなく、二面性が病気なのだ。そしてこの病気に気づいてこれを探り出し、追求し、取り押さえるという仕事は、個別において行われる以外なく、全体について行われるのではない。(同頁)
心身二元論を哲学的に批判し解体するだけでは、医学的には何の問題解決にもなっていない。私たちの生はなぜ二面性に引き裂かれざるをえないのか。その葛藤を現実世界の中で一つの全体として個別的に(つまりモナド的に)追求し、それぞれのゲシュタルトクライスに応じて治療する以外に真の治癒はありえない。そうワイツゼッカーは言いたいのだろう、と私は考える。
世界は病気として告知されるが、これはモナド的に表象すべきことである。なぜならモナドは数的な固定を拒み、場所的な多重化という表象を求めるのだから。(183頁)
同短章はこう結ばれている。ここに出て来るモナドの「場所的な多重化」については第三十章で説明されている。明日の記事ではそこを木村敏の註解も参照しながら読んでみよう。
ヴァイツゼッカーは仏語にはほとんど訳されていない。1958年に出版されたミッシェル・フーコーとダニエル・ロシェによる『ゲシュタルトクライス』の仏訳(Le cycle de la structure, Desclée de Brouwer)は、もう長いこと絶版のままで、古本市場にもほとんど出回っていない。折に触れてサーチエンジンで探してみても、まったくヒットしない。かりに出たとしても、おそらく法外な値がつけれられることだろう。ヴァイツゼッカーの最晩年の未完の大著『パトゾフィー』のほうは、Jérôme Millon 社から2011年に仏訳が出版されており、これはヴァイツゼッカー再評価の機運の現れと見ることができる(同書については、2013年9月5日の記事で取り上げたことがある)。今後他の著作も仏訳されることを期待したい。ドイツ語がフランス語と同じように読めれば苦労はないわけだが、それは私にはもう無理だ。
日本人にとって幸いなことに、主に木村敏の尽力によって、ヴァイツゼッカーはフランスでよりもよく知られ、よく読まれているようだ。とはいえ、『生命と主体』は版元品切れで、重版の予定はなさそうである。ただ古本は出回っているようで、それほど高くもない。
さて、『生命と主体』を構成する二編のうちの後編「アノニュマ」は、緩やかに繋がり、相互に参照し合う四十の短章からなっているから、どこから読み始めてもいいかわりに、一つの短章を理解するには他の短章も読むことが自ずと求められるようになっている。
例えば、「身体の基本的なありかたの二面性」と題された三十五番目の短章で取り上げられているからだとこころの二面性についての考察を理解するには、それまでの短章でさまざまな視角から論じられているゲシュタルトクライスをよく理解しておく必要がある。しかし、この短章だけをまず読んで、そこで立ち止まって私たち自身で何が問題なのかを考えることが、それに先立つ短章をより明確な問題設定とともに読むことを可能にする。そういう読み方も許すように全体が書かれている。
その二頁に満たない短章の段落の一つを引用しよう。
病気の二面性こそ病気なのだ。一度も健康になったことのないような人は人間ではないだろうし、一度も病気になったことのないような人も人間ではないだろう。病気は「そうあって当然ではないけれど、そうあらざるをえない」nicht sein zu sollen und doch sein zu müssen という両面をもっている。ここでは人間の超越が「病気はそれ自身を超越してひとつの意味をもつのに対して、それ自身を超越しない健康はいつまでたっても無意味である」という内容をもつことになる。健康が理想であることは間違いないとしても、そういうことが言えるのは人間が完全に健康ではないからなのだ。(180頁)
この考察をさらに一歩先にすすめると、己を否定するものを完全に排除する「健康」を「理想」として追求することこそ、人間を間化するより深刻な病なのだと言うこともできるだろう。