内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

夏休み日記(9)藤原定家お気に入りの秀歌私撰集『定家八代抄』から夏の一首

2019-08-11 17:00:53 | 詩歌逍遥

 『定家八代抄』は、藤原定家が八代集(『古今和歌集』から『新古今和歌集』に至る八代の勅撰和歌集)より秀歌一八〇九首(一首重出)を選出し、二〇巻に分類した私撰詞華集である。部立ごとの内訳は、春歌(二巻)夏歌(一巻)、秋歌(二巻)、冬歌(一巻)、賀歌、哀傷歌、別離歌、羇旅歌(以上各一巻)、恋歌(五巻)、雑歌(三巻)、神祇歌(一巻)、釈教歌(一巻)。定家は、『八代抄』を座右に置いて、作歌の指導を求める歌人に秀歌例を『八代抄』から抜粋して送っている。「定家の好尚・連想にまかせて順不同に配列されている。八代集歌を資料として定家が私撰集を編んだ観を呈している。」(岩波文庫版上巻「解説」)
 初撰本(八七三首)と再撰本を比較すると、「初撰本は最初に八代集から選出した秀歌だから、定家の好尚に強く合致した歌が多く、一方再撰本は世人の目に触れることを配慮して形態を整えた撰集であるから、無難に仕立てられているといえよう。」(同解説)
 初撰本のベスト5は、西行(35首)、俊成(34首)、慈円(26首)、人麻呂(24首)、和泉式部(22首)。再撰本のベスト5は、人麻呂(56首)、俊成(53首)、西行(50首)、貫之(49首)、業平(38首)。初撰本が新古今歌人を優遇しているのに対して、再撰本は、人麻呂・貫之・業平の歌を増やし、古代歌人と現代歌人とのバランスをよくしている。
 夏歌から『金葉和歌集』の撰者源俊頼(1055-1129)の涼しげな一首。

風吹けば蓮のうき葉に玉こえて涼しく成りぬ日ぐらしの声

 夕立が降った後の景。家集には詞書「皇后宮権大夫師時の八条の家にて、水風晩涼といへる事をよめる」とある。「風が吹くと、池に浮く蓮の葉の上を露の玉が転がりこぼれ、ひぐらしの声も聞こえて、涼しい夕方になったことだ。」(岩波文庫版脚注の訳)
 子供の頃、夏休み、もうどこかは忘れてしまったが、田舎に滞在した折に、夕暮れに竹林沿いの畦道を歩きながら聞いたひぐらしの声の涼しさを思い出す。












夏休み日記(8)涼を和歌に求める

2019-08-10 23:59:59 | 雑感

 暦の上では、すでに立秋を過ぎ、時候の挨拶も「立秋過ぎてなお暑い日が続いておりますが」などと残暑見舞いの冒頭に置くのが習わしですが、それがいかにも空々しく聞こえるほどの猛暑が九月に入っても続くのが当然のことになってしまって何年になるでしょうか。
 関東近県や中部関西地方の暑さよりは若干ましとはいえ、東京もまた連日熱暑に見舞われ、せっかくの一時帰国中でありながら、日中出歩くのは躊躇われる日が続いています。家の中で冷房を効かせた部屋でじっとしていれば外の暑さとは一応無縁ではありますが、気持まで涼やかとはなかなかまいりません。
 帰国後丸二週間休んでいた水泳を八日に再開しました。自転車で五分ほどのところにある目黒区立五本木小学校内の屋内プールに朝通っています。九時の開場とともに入り、毎日五十分で二キロ泳いでいます。水温が高めなので、上がると汗がしばらく止まりません。冷水シャワーを浴びて体を冷やしてから帰ります。その帰り道は、太陽が照りつける暑さを肌に感じつつも、全身に心地よい疲れを感じながら、ゆっくりとペダルと漕ぎます。
 午後は気ままな読書タイムです。ここ数日あちこち頁をめくっているのが『定家八代抄』(上下二巻)です。先月の岩波文庫「夏の一括重版」三十六点中の一点です。夏を詠んだ歌を通覧してみました。『八代抄』に限りませんが、一般に、夏を詠んだ和歌は、春秋に比べて明らかに少なく、冬に比べても少ないですね。当然、夏の名歌となると希少です。それに、夏の到来、秋の訪れ、夏の短夜、夏の夜の月、五月雨、時鳥、花橘、涼しさを喚起する風物などが歌題で、暑さそのものを詠んだ歌は『八代抄』には皆無です。
 明日の記事では、涼しげな夏の歌を一つ選んで鑑賞してみます。














「夏休み日記(7)リュシアン・テニエールの統合価理論を日本語文の構造分析に活用する」

2019-08-09 18:10:03 | 雑感

 修士論文の指導は、各学生が選択したテーマに応じて指導教員を決めるのが原則だが、学生が選んだテーマがあまりにも狭かったり、論文にはなりにくいテーマだったりすると、指導教員によるいわゆる「教育的指導」が行われ、学生にテーマの変更を提案する。
 現在私が指導教員を務めている学生たちのテーマは、16世紀末京都町衆、神風特攻隊、伊勢物語、蜻蛉日記、北条政子、日本語表記論、現代日本語論、日本語構造分析と、かなり多様である。これだけを見れば、いったいこの教員の専門は何なのであろうかと疑いたくなるほどである。ディスカウントストアの店内を彷彿とさせるこの雑多性は、しかし、教員の責任でも学生の落ち度でもない。これは、弊日本学科のように専任の数が少ない学科が共通に抱える問題なのである。
 個人的に悲しいことは、日本思想史の分野でテーマを選ぶ学生はこれまで一人もいなかったことである。これからも、その可能性は、2020年東京オリンピックの男子マラソンで日本人が金メダルを取る確率よりも低い。わたくしの指導の下、思想史の論文が書けるなんて、フランスにいながらにして日本でも高級店以外では絶対に食せない極上の寿司が回転寿司並みの価格で食べられるほどの「僥倖」であることが学生たちはわかっていないのである。フランスの未来は暗い。
 冗談はさておき、上掲のテーマのうち、私が特に「いけている」と思っているのが、リュシアン・テニエールの統合価理論を活用した日本語構造分析である。フランスでは誰も手を付けていないこのテーマは、私が学生に「やれ!」と「教育的指導」したのである。そうしたら、「やります!」と二つ返事で乗ってきた。その学生は日本語が抜群によくできる。時枝誠記も熱心に読んでいる(これも私が読めと指導した)。期待している。
 日本では、小泉保の『日本語の格と文型 結合価理論にもとづく新提案』(大修館書店、2007年)がその活用の最初の実践例である。本書は、著者が「まえがき」で言っているように、テニエールの学説の単なる受け売りではない。「そこに改良を加えて、日本語の各体系を取り出し、動詞と形容詞の文型を設定し、さらに、結合価理論を活用して文の構造分析を行う具体的な方法を紹介」している。
 テニエールの結合価理論を活用して日本語の分析を行うことは、統合価理論の理論的汎用性を日本語において検証することであると同時に、日本語の特徴をより普遍的な言語理論の中において明確に規定することでもある。このテーマでの研究には、まだまだ発展・深化の可能性が大いにある。この研究を通じて、結合価理論という共通の理論的土台の上に、日本語的思考の特徴を他の多数の言語による思考の特徴と比較しつつ、定式化することが可能になるだろう。












夏休み日記(6)「老人」になることが難しい今の時代に、中途半端で先行きの見えないままに漂う日本のオジさん

2019-08-08 22:53:45 | 読游摘録

 五月十六日に亡くなられた文芸評論家の加藤典洋氏の生前最後の出版書は、講談社文芸文庫から同月に刊行された『完本 太宰と井伏 ふたつの戦後』であろう。本書の後書「文芸文庫版のためのあとがき」は、死の二ヶ月前の最後の入院中の三月に執筆されている。これが絶筆であるかどうかは私にはわからないが、生前の最後の文章の一つであることは間違いない。
 この文芸文庫版の解説は、加藤氏自身の願いによって、生前一面識もなかった與那覇潤氏が執筆している。その依頼の理由を、この「ブリリアントな若い人」が、太宰や井伏について書かれた本書を、「先入観なしに読んで、どんな感想を持ってくださるかに関心があった。この人は、病気をくぐって、その思考を深めることのできる人だということを、氏の近著『知性は死なない 平成の鬱をこえて』を読んで得心したからにほかならない」と加藤氏は記している(209頁)。ちょうど與那覇氏のその本を読み終えたところだったので、加藤氏の遺著も読んでみようと思った。
 「文芸文庫版のためのあとがき」の最後の二頁は、これからの時代を担う「若い人」へ宛てられた遺書のようにも読める。しかし、それは死を予期し、達観した人の人生観というようなものではなく、「若い人」に向けられた「社会的人間」としての「老人」からのメッセージというべきかも知れない。その一部をここに引いておきたい。

そしていま、自分で病気を経験し、ようやく私は一人の「老人」になることができたと思っている。太宰、三島とは無縁の境涯というほかない。いまの時代「老人」になるのは難しい。「老人」とは世を捨てることではない。「若い人」を助ける「一歩身を引いた」、「自分の分限を知った」社会的人間のことである。
 これからはしっかりと「若い人」に場所を譲り、そういう人に活躍してもらう助力をすることが「老人」たる自分の役割であると思っている。その意味でも、今回の本を出せること、その解説を若き與那覇潤さんにお引き受けいただけたことを幸運と感じている。(209-210頁)

 こんなふうに「若い人」にバトンを渡せる「老人」になることは、いまの時代、確かにとても難しい、と思う。私は年齢的にはほぼ老人であるが、加藤氏が言う意味での分限をわきまえた「老人」にはほど遠く、意気軒昂たる「壮年」はすでに遠い過去の話である。この中途半端で先行きの見えない立場はとても居心地が悪い。ただ、おずおずと、もうしばらく「現役」でいさせてくださいと「若い人」たちにお願いするばかりである。












夏休み日記(5)「近江朝崩壊と人麻呂歌」、無常観とノスタルジー

2019-08-07 23:59:59 | 雑感

 今回の帰国中、これまで五人のそれぞれに異なる分野でお仕事をされている大学の先生方にお目にかかり、お話を伺う機会があった。旧知、初対面、それぞれに楽しくお話しすることができ、いろいろと勉強になり、刺激され、啓発された。今後何らかの企画にご一緒に参加する機会が生まれてくるかも知れない。
 その中で、一つ、二年後のことでまだその通り実現するかどうかは不確定だが、大変に取り組み甲斐のあるご提案をいただいた。「崩壊と世界文学」という研究テーマが話題になったとき、すぐに私の頭に思い浮かんだテーマは「近江朝崩壊と人麻呂歌」であった。そうお話しすると、そのテーマで話してほしいということになった。思いもかけぬことではあったが、これはこれから二年間掛けてそのテーマに取り組んでみよという課題をいただいたのだとも自分には思え、喜んでお引き受けすることにした。近江朝崩壊という歴史的経験が人麻呂歌においてどのような歴史認識・時間意識・世界観とともに表現されているかという問題を、無常観とノスタルジーというテーマともリンクさせつつ、ゆっくりと熟成させながら考えていきたい。












夏休み日記(4)『和泉式部集総索引』によるミクロレベルの和歌鑑賞体験

2019-08-06 23:59:59 | 読游摘録

 学術専門書が高価になるのは、その発行部数の少なさ・出版までにかかった年数・頁数・特殊な版組等々の様々な理由から致し方のないところだ。科研費等の出版助成を受け、全国の大学図書館が購入してくれればなんとか採算が取れるかどうかといったところなのだろう。重版の可能性は限りなく零に近く、出版後二三年もすれば入手困難な稀覯本になってしまい、出版時の定価を遥かに上回る値が古書市場で付けられることも珍しくない。
 それとまったく逆に、ほとんど叩き売りに近い値が付けられてしまうこともある。今日届いた『和泉式部集総索引』(清水文雄編、笠間索引叢書、1993年)は、1143頁を数える中型辞書並に分厚く堅牢な造本で、定価38000円である。ところが、私がネットの「日本の古本屋」で見つけた古本は、本体価格1490円(+送料800円)であった。おそらく一度も開かれたことがないであろう新本同様な立派な本の頁をめくりながら、編者とその協力者たちが本索引の制作のために費やした多大な労力と時間に思いを馳せ、彼らの献身的な努力によって成ったこの労作がこんな値段で売られていることに(それゆえに自分が躊躇いもせずに買うことができたとはいえ)、「学問の悲しさ」を思わずにはいられなかった。
 本索引は、『校定本 和泉式部集(正・続)』(笠間書院刊、1981年)の和歌および詞書に用いられた全語句を単語に分解して、歴史的仮名遣いにより、五十音順に配列したものである。和歌自立語索引、詞書自立語索引、和歌助動詞索引、和歌助詞索引、詞書助動詞索引、詞書助詞索引の六部構成で、その徹底性は本書を紐解く者をして慄然とさせるほどである。
 ひとつの和歌を構成するすべての要素が単語レベルで検索できるようになっているから、同じ歌がその要素の数だけ繰り返し索引に登場する。必要に応じて、ある一つの単語についてその使用例を網羅的に検索することが本書の第一の用法であるとしても、それが助詞一つにまで徹底化されているので、例えば、係助詞「も」の使用例は24頁にも渡り、それらを通覧することで、式部の歌のテクスチャ―をそのもっとも微細なレベルで要素別にあたかも拡大鏡で見るかの如くに鑑賞することができるようにもなっている。これはこれで、私にとって、一つの新しい和歌鑑賞体験である。
 編者とその協力者たちが本書に捧げた労苦に感謝しつつ、本索引を頼りに、和泉式部集の歌一つ一つをこれからも何度も読み返したいと思う。












夏休み日記(3)仕事を離れた読書の愉しみ ― 大原富枝『建礼門院右京大夫』

2019-08-05 15:35:58 | 哲学

 夏休みくらいしか大作や古典をじっくりと読む時間がない。その夏休みでさえ、ぼんやりしすぎると、あっという間に終わってしまう。
 今回の一時帰国前に、帰国したら読もうと予め注文しておいた本が何冊かある。もちろんその全部を帰国中に読めると思っていたわけではない。そのほとんどは読まずにフランスに持ち帰ることになるだろう。でも、せめて一冊あるいは一作品くらいは、この帰国中に腰を据えて読んでおきたい。
 岩波文庫版の新版『源氏物語』(全九冊)のうち、第四冊まではすでにフランスの自宅にある。今目の前にあるのは、今年三月刊の第五冊(梅若・藤裏葉・若菜上・若菜下)と先月出たばかりの第六冊(柏木・横笛・鈴虫・夕霧・御法・幻)。これらを読むのは、しかし、第四冊までを読み終えてからにしよう。
 日本の古典で今回購入したのは、『王朝秀歌選』『王朝物語秀歌選』(上・下)など歌集が多く、これらは一気に通読するためというよりも、折に触れて読むためだから、そのまま持ち帰る。
 今年の五月上旬に『建礼門院右京大夫集』について十回ほど記事にした。その際に大原富枝の『建礼門院右京大夫』(講談社文庫)の電子書籍版を駆け足で読むには読んだが、電子書籍版というのはやはり味気ない。そこで紙の本を注文しておいた。といっても、もう古本でしか手に入らない。講談社文庫版(一九七九年)と朝日文庫版(一九九六年)を購入した。どちらもカヴァーはかなり傷んでいるが、本文はまあまあ綺麗。同作品の両版を購入した理由は、五月十日の記事に記した通り、前者の大岡信による解説と後者の竹西寛子による巻末エッセイを読みたかったからだ。期待に違わず、どちらも作品の読みどころをそれぞれに鮮明に捉えたいい文章。
 あわせて購入した糸賀きみ江全訳中の『建礼門院右京大夫集』(講談社学術文庫、二〇〇九年)を座右に置いて、大原富枝の『建礼門院右京大夫』を明日から味読する。













「夏休み日記(2)海外在住日本人のすべてが海外で「活躍」しているわけではない」

2019-08-04 15:15:40 | 雑感

 在仏二十三年になるから、私はいわゆる海外在住者です。
 海外にしばらく暮らしている日本人を紹介するときによく使われる紋切り型に「海外で活躍されている〇〇さん」という表現がありますね。正直、イラッとくる。なぜかって? 私は、ただ単にフランスに長く暮らしているだけの話で、少しも「活躍」などしていないからです。もちろん「暗躍」もしていません。平凡に細々と暮らしているに過ぎません。想像するに、海外在住者の大半がそうなのであって、人並みの暮らしが何とかできているというだけのことでしょう。
 その人並みの暮らしさえできていない場合もある一方、最初から滞在期間が決まっている企業や役所からの長期海外出張は、たとえ数年暮らそうが仮住まいに過ぎません。暮らす国の国情、滞在理由・身分、所得等々、海外生活の条件は様々です。それらを無視して、十把一絡げに「活躍」という一語を〇〇の一つ覚えみたいに繰り返すメディア(だけではないが)って、ほんとうに〇〇じゃないのって思います。といっても、別にメディアに恨みがあるわけではなく、まあ、どーでもいいんですけどね。かねてより気になっていたことなので、一言書かせていただきました。これでスッキリしたので、もう二度と話題にしません。













夏休み日記(1)夏休み初日 ― 京舞鑑賞とポーランド人の優しさ

2019-08-03 23:59:59 | 雑感

 今日からが実質的な夏休み。酷暑は辛いけれど、気分は緩やか。
 午後、昨年春学期にストラスブールにサバティカルでいらっしゃった成城大学のO 先生のお誘いで、表参道にある銕仙会能楽堂で京舞おさらい会を鑑賞。締めくくりは人間国宝の井上八千代の舞。舞台に現れたその瞬間から会場全体の空気が凛と引き締まり、仕舞までそれが一瞬の緩みなく持続しているのが、私のようなまるで無知な素人にも感じられた。
 鑑賞後、代々木上原に千代田線で移動し、駅前の薩摩料理のお店で歓談。先生はストラスブールご滞在の後、サバティカルの後半はポーランドの首都ワルシャワで過ごされた。その間にご経験なさったお話をいろいろ伺った。それが実に興味深かった。そこには私のまったく知らないヨーロッパの姿があった。ポーランド人の優しさに心が洗われたと、いくつかの印象深い例を挙げてお話してくださった。そのお話を聴いていると、私たちは、どうしてこれほどまでに他者に無関心になってしまったのか、なにか大切なことを忘れ、それを忘れたことさえもう思い出せなくなっているのではないだろうかとの危惧を懐いた。















集中講義第五日目(最終日)― 集中講義後の会食で暴走する

2019-08-02 23:59:59 | 講義の余白から

 最終日の今日、一コマ目は、学生たち三人の発表とそれに対する教師側からの応答とアドヴァイス。今日は、北大のM 先生を特別ゲストとしてお招きすることができたので、先生からもコメントしていただいた。二人の教師との質疑応答という学生たちにとってかなり「贅沢な」な時間であったと思うが、本人たちはどう受けとめてくれただろうか。
 二コマ目は、私の方からの総括。後期の西田の論文のいくつかに見られる「悲哀」「苦悩」という語の哲学的に見て特異な用法は何を意味するのか。これらの語が最後期の西田の論文において現れなくなるのはなぜか。そのことと行為的直観論の登場とは関係があるのか。これらの問題について私なりの解答を示したが、結局のところ、souffrance を哲学の問題として語りうるのはどのような場面でのことなのか、という今回の集中講義の最終的な問いに対する答えを出すことはできず、私自身の課題として残った。
 三コマ目は、学食で、M先生と学生たち三人と雑談。六時少し前にお開き。
 その後、M 先生と奥様とお嬢様と大学近くの中華レストランで会食。お二人とは一年ぶりの再会。集中講義終了の解放感も手伝ってか、小学校三年生お嬢様からの至極まっとうな大人社会に対する疑問への私の回答はかなり暴走気味であった。例えば、「なんでみんな歩きスマホをやめないのか」という疑問に対して、「あれは私も許せない。特に階段を降りながらスマホをいじってのろのろ降りている奴が前にいると、背中を突き飛ばしてやりたくなる衝動を抑えるのに苦労したことは一度や二度ではない」など、大学教師にあるまじき教育上好ましく暴言を吐いて、隣に座っていたM先生を狼狽えさせたりなどした。お嬢様ご自身は、私の回答にいたく満足されていたようであったが。
 食後、お二人と別れ、M先生と神保町に移動して、飲み屋で歓談。
 かくして集中講義最終日を楽しく締めくくることができたのでした。