内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

困難な非日常的日常を生きるための実践哲学

2020-03-21 19:27:54 | 哲学

 昨日、私が住んでいるバー・ラン県知事が県条例として、全国的に適用されているのよりもさらに厳しい外出禁止令を発令した。これによって、森・公園・野外のスポーツ施設・その他人が集まれる屋外の場所への外出もすべて禁止された。しかもその期間は4月15日まで延長された。
 これで復活祭の休み前に学校が再開される可能性はバー・ラン件に関しては完全になくなった。しかも、仮に禁令が来月16日に解除されたとしても、それは学校再開を直ちに意味しない。
 大学の授業は通常授業が4月の最終週までで終了し、翌週から二週間の期末試験期間に入る、というのが今年度の公式学年暦であった。つまり、仮に5月に大学が再開されたとしても、中間試験以後教室での授業はまったくなしに学生たちに試験だけ受けさせることになる。しかも、現時点では、教室での試験実施の可能性さえまったく予想がつかない。
 にもかかわらず、これまでのところ、国民教育大臣は公式の学年暦を変えるつもりはないと言っている。ところが、一昨晩、7月31日まで学年度が延長されるという趣旨の文書がネット上を駆け巡った。その文書はもっともらしく政府発効の公式文書のように偽装されていたため、中高生たちばかりでなく、相当数の教員たちも、発信元のアドレスを十分確認しないで拡散してしまった。大臣はすぐにそれを否定するツイッターを発信した。しかし、現在のあまりにも不確実な状況からして、それはまったくあり得ない話ではないだろうと私は思う。
 これだけ悪条件と不確定要素が揃っていて、通常授業の教育の質を維持することはまず不可能と言ってよい。ただ、オンライン授業でどんなことができるのか、その可能性を試す機会にはなっている。ぶっつけ本番の危うさ、手探り状態の戸惑い、試行錯誤の繰り返しは避けられないが、今回のような非常事態ではそれも仕方ない。
 ますます困難さを増す非日常的日常はまだまだ続く。そこから逃げ出すこともできない以上、現実への持続的な細心の注意を維持しつつ、その現実からの魂の離脱を日々試みるという哲学的態度の実践が求められている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


春の陽気、満開のマグノリアの芳香を胸に吸い込む ― 外出制限令下、初めての買い物

2020-03-20 17:56:39 | 雑感

 今日は朝からよく晴れた。書斎の目の前の大きな隣家の庭木では鳥たちが早朝から囀っている。午後は気温が20度近くまで上がった。花々が一斉に開き出した。散歩するのに気持ちの良い天気だ。
 外出制限令が発効した火曜日から昨日木曜日までの三日間、一歩も外に出なかった。先週末も土日は一方外出しなかった。もっとも、これはオンライン授業を月曜日から開始するための準備作業と同僚とのメールのやり取りに忙殺されたからだが。
 フランスの状況も、イタリア、スペインに次いで深刻の度を急速に増している。コロナウイルス関連のニュースは連日ネットでもテレビでもひっきりなしに報道されている。それらを全部追っていたらそれだけで一日が終わってしまう。でも、まったく気にせずに仕事に集中するのはむずかしい。今日も机に向かって仕事をしながら、一時間おきくらいにネットのニュースをチェックした。
 状況はさらに悪化するだろう。感染拡大のピークはまだいつになるのかさえわからない。15日間の期限付きで発効した外出制限令がさらに延長されるのは確定的だ。少なくとも四月末のヴァカンス開けまで覚悟しておいたほうがいいだろう。
 今日の午後、月曜日以来の買い物に出かけた。火曜日から外出の際にその携帯が義務づけられた「例外的外出証明書」を携帯して自転車で出かけた。一番近いスーパーまででも自転車で6,7分ほどかかる。今日はそこで簡単に買い物を済まそうとその店の前まで来て驚いた。店の外に1.5から2メールくらいの間隔を開けて客が列をなしていたのだ。入店者の数を制限することで店内での客同士が至近距離に近づくことを避けるためだとわかった。
 他の店も同じかどうか確かめようと、その店では買い物をせずにもっと大きなスーパーまで足をのばした。同じである。行列はもっと長かった。二十人ほど並んでいる。そのうち約半数がマスクをしている。こんな光景はもちろん初めて見る。店の入口にガードマンが立っていて、一定数の客が店から出て来ると、五人ずつ店内に入ってよいと合図をする。いったいどれくらい待たされるのかと思ったが、十分も待たされなかった。
 店内は当然すいている。品薄はひと目でわかるが、大体いつもどおりの買い物ができるくらいには品物が入荷して来てはいるようだ。レジには、レジ打ちと客との間に透明なビニールシートがカーテンのように天井から吊られている。飛沫感染を防ぐためだ。客たちは買い物メモを片手に少しでも店内にいる時間を少なくしたいかのように急ぎ買い物を済ませレジに並ぶ。レジで待たされないから普段よりむしろ快適なくらいだ。
 帰り道、通り過ぎる家々の庭にはマグノリアの大ぶりの花が青空に向って蓮の華のように大きく開いているのが目立った。その甘やかな芳香を胸に吸い込む。一時間にも満たない外出だったが気分が少し晴れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


学生たちの良心と良識にその成否がかかっている遠隔監視つきオンライン試験の試み

2020-03-19 17:53:53 | 雑感

 今日の正午から、私は、ほとんどの教員がその実現に懐疑的なオンライン筆記試験を「近現代日本文学」のために実施した。これは今後他の科目でも使えるかどうか検討する際の実験例という意味もあった。もし大きな破綻があれば、試験を中止あるいは無効にするつもりでいた。
 試験監督はZOOMを使って行った。それぞれの学生は、室内で一人PCに向かい、試験受けている自分がよく見えるようにカメラを設置ように予め通告しておいた。私の方は自宅で二台のPCとiPad を使って全員を同時に監視できる体制を調えた。
 今朝、試験実施に関する最後の注意事項を学生たちに送信した。遅くとも試験開始15分前までにセッティングを終えて試験の開始を待つように求めた。私自身は試験開始の一時間以上前に「試験会場」に入り、接続に関する技術的問題にいつでも対応できるようにした。
 受験者は38名。ただ、いくら彼らが自室で受験しているときの顔が見えるといっても、それ以外の部分は見えないのだから、不正をしようと思えばそんなに難しいことではない。すべての学生を同時に同じ程度に監視することもまず不可能だ。
 試験十分前、全員が「入室」したところで、マイクを使って以下のようなことを述べた。
 「この試験がうまくいくかどうかは、技術的な問題を除けば、ひとえに君たちの良心と良識にかかっている。これは初めてのオンライン試験であり、今後他の科目でも実施できるかどうかを検討するためのモデルケースでもある。どうか他の学生たちに良き例を示してほしい。」
 結果として、若干のトラブルはあったものの、なんとか無事終えることができた。答案を書き終えたらすぐにメールの添付書類として送るように指示しておいたこともあって、試験終了時間を待たずに送ってきた学生が大半だった。届くとすぐに受領メールを返信した。
 試験終了後、三十八枚の答案すべてをざっとチェックした。カンニングして点数が稼げるような易しい問題はほとんどなく、かなり高度な翻訳問題と授業で私が話したことを総合する力がなければ答えられない問題の配点を高くしたので、やはり普段授業に来ていない学生の答案はとても合格点が取れるような出来ではなかった。
 ちょうど一週間前に教室で彼らに今日の試験のことを説明しているときには、まだ大学閉鎖は決まっていなかったから、教室での試験という前提で話していた。その日の夜に突如閉鎖が決定され、教室での試験ができなくなった。最初は試験の延期を考えたが、それが非現実的であるとわかり、日曜日、学生たちにオンライン試験の実施を知らせた。そんな急拵えの試験にしてはうまくいったといいのではないかと思う。
 とはいえ、学生の側でもいろいろと思うことはあるだろう。試験後、学生たちに率直な意見を聞かせてほしいとメールを送った。すでに幾通か返事が返ってきている。彼らの意見も踏まえて、明日のオンライン教員会議で今後の方針について話し合う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


悲しいほど澄んだ青空の下、外出制限令は発効した

2020-03-18 18:30:14 | 雑感

 昨日正午からきわめて厳しい外出制限令が発効した。早速各地で警官たちが巡回を始めた。市民は原則自宅で過ごすことが求められ、外出する場合には、フランス政府が指定した証明書に記載されている許可されている外出理由の中から一つ選びサインしたその証明書を常に携帯していなければならなくなった。その証明書をダウンロードしプリントアウトできない人は同じ内容を手書きしたものを携帯してもよい。証明書を携帯していないと罰金が課される。昨晩だけでパリでは500人が罰金を課されたと報道されている。
 近所をちょっと散歩するにも、日用の必需品を買いに行くのにも、健康のために外で運動するのにも証明書を携帯しなくてはならない。この前代未聞の外出制限はさしあたり15日間限定で発効した。つまり月末まで続く。おそらくそれだけではすまないだろう。一ヶ月は続くと覚悟したほうがよいだろう。
 新型コロナウイルス感染拡大のスピードをできるだけ抑制し、感染のピークを下げかつ遅らせることがこの措置の目的だ。それはウイルスに対する積極的な防御策というよりも、すでに限界に達しつつある医療体制の崩壊を防ぐための最後の手段として実行に移された。医療現場では、はっきりとした症状が表れ重篤化が懸念される場合にのみ病院で診療を受けるよう市民に求めている。
 先週金曜日まで通常通り授業が行われていた大学も昨日火曜日完全閉鎖された。それでも私たち教員はそれぞれ自宅からオンライン授業を続けている。我が日本学科は、教員たちの見事というほかない適応力で大きな破綻もなく最初の三日間をなんとか乗り切った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


聴いてくれる相手が目の前にいるからこそ生まれてくる言葉がある

2020-03-17 17:43:57 | 講義の余白から

 今日の午前中「近代日本の歴史と社会」のオンライン授業を行った。接続に関しては ZOOM の方が安定している。
 今日の授業を始める前、早朝から授業の準備をしているうちに、講義形式の授業なのだし、昨日の記事で話題にしたように充分な接続環境が得られない学生たちもいるのだから、オンライン授業にこだわるよりも、講義を全部録音してパワーポイントと一緒にアップしたほうがいいのではないかと思うようになった。
 そこで授業のはじめに学生たちの意見を聞いた。昨日の授業については、やはり接続に問題があった学生が少なからずいた。途中からほとんど私の声が聞き取れなかったという学生もいた。これでは授業にならない。仮にこの問題は ZOOM では解消できるとしても、接続環境はそれぞれの学生側の問題であり、その点での不公平の解消のためには何もしてあげられない。
 そこで彼らの同意のもと、今後の授業はすべて録音してアップすることにした。これで接続環境の不安定性に左右されずに学生たちはいつでも授業内容にアクセスできるようになる。特に月曜日の授業は日本語で行うから、録音を繰り返し聴くことができるというのは学生たちにとって大きなメリットにもなる。私も教室でのように同じことを繰り返して言わなくて済むようになる。
 もちろんデメリットもある。インターアクティブ性は完全に失われる。臨場性もない。規則的に授業に出席するという生活のリズムも学生たちは保てない。これらの条件下で彼らはモチベーションを維持できるだろうか。
 私は普段から簡単なメモだけで講義をする。もちろん話したいことはすでに頭に入っている。しかしそれは同じことの繰り返しだからそうしているのではない。毎年講義内容はかなり変える。授業の準備には時間をかける。用意したメモもど忘れしたときの用心でしかない。なぜそうするか。それは目の前にいる彼らに語りかけているからこそその場で生まれてくる言葉を大切にしたいからだ。もちろんいつもうまくいくとは限らない。失敗もある。
 こうした言葉の誕生は聴いてくれる相手が目の前にいてこそ可能になる。それが失われるのは悲しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


大学閉鎖初日、オンライン授業ぶっつけ本番

2020-03-16 23:59:59 | 講義の余白から

 今日月曜日が大学全面閉鎖初日。日本学科のすべての授業はオンライン授業で行われた。先週前半にはこんなことになるとはまったく想定されていなかった。木曜日夜に大統領から学校閉鎖が宣言されてから、すべての教員が今日に間に合わせるように休日返上・不眠不休でオンライン授業用に教材を作り変えた。そして今日、ぶっつけ本番で皆授業を行った。
 授業が終わったらすぐに報告してくれるように頼んでおいた。報告を見るかぎり、大過なくできたようだ。協力的な学生たちに助けられたという報告をしてくれた教員もいる。みんなほんとうにありがとう。
 先週までは毎週教室で顔を合わせていた学生たちと、何の予告も練習もなく、心の準備さえなく、PCの画面と音声だけを媒とした授業でコミュニケーションを図るのは容易ではない。それは学生たちもわかっている。こんなことになったのはいっさい教員たちのせいではないこともわかっている。だから自分たちも積極的に授業に参加して少しでもオンライン授業をよりよいものにしようという意思が学生たちの間で共有されようとしている。教員だってみんな最善を尽くしている。
 こんな状況はもちろん前代未聞だ。ここまでしなくてはいけないのか、という声もある。だが、今批判したところで、どうにかなるものではない。
 確かに、技術的な問題はある。閉鎖を受けて接続数が激増し接続が安定しない。特に、高速回線に繋げない学生たちは、画像や音声を良好な状態で受け取れない。自宅に接続環境がない学生だっている。そのなかにはとびきり優秀な学生もいるのだ。こんな不公平を解消する対策を今すぐ考えないといけない。
 今日の私の授業も、まさにぶっつけ本番のオンライン「ライブ」授業だった。できるだけ丁寧にパワーポイントを作り、それだけでも話の筋は見えるようには組み立てはしたが、一連の補足事項は口頭のみだ。それらすべてを文章化して表示するスライドを用意するのは無理だった。要点と重要語彙だけを画面に映し共有した。
 明日の授業は全部フランス語だし、パワーポイントはすでに完成したものがあり、最後の見直しと若干の修正と増補を行えばよい。明日は ZOOM を使う。今日使った Jitsi Meeting より安定しているようだから。でもぶっつけ本番であることにかわりはない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「新たな指示があるまで」という不確実性の中で生きる非日常的日常

2020-03-15 15:05:49 | 雑感

 フランス全国で15日日曜日午前零時から、すべてのレストラン、カフェ、映画館、ディスコ等が閉鎖された。しかも、食料品、薬局、ガソリンスタンド、銀行、タバコ・新聞販売所といった国民生活に必須のものを除き、全ての商店も閉鎖された。いつまでか。「新たな指示があるまで」。
 これまでの一連の新型コロナウイルス対策が発表される度毎にこの「新たな指示があるまで jusqu’à nouvel ordre」という表現が繰り返し用いられている。今回も同じだ。つまり、いつまで続くのかわからないということである。
 フィリップ首相は、昨夜の会見において、移動を少なくし都市間の移動を避けることを国民に求めた。集まるのを最大限避け、家族や友人との会合を制限し、公共交通機関は、職場で働くことが必須な場合に限ってその職場に向かう際のみ利用することも国民に求めた。さらに、真に必要な買い物、運動、投票等を除いて、外出しないでほしいとまで述べた。
 これではまるで敵に国土を襲われつつある戦時下の生活のようではないか。実際、テレビの情報番組で「対コロナウイルス戦争」という表現が使われていた。ヨーロッパ中で急速に増殖しつつあるこの肉眼では見えない無数の敵を前に、最新の軍事兵器も化学兵器もまったく無力であり、敵の襲撃に徒手空拳で曝された国民は、それぞれ自宅への退却を強制され、そこでただひたすら敵の勢いが弱まるのを待つ「籠城」を余儀なくされている。敵の退却が始まるのがいつになるか、まだまったくわからないままに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


かくもドラスティックな措置が社会に引き起こしかねないことへの懸念

2020-03-14 17:37:19 | 雑感

 今朝五時から午後三時過ぎまで自宅でほぼ机に向かいっぱなしだった。来週月曜日からの大学閉鎖に備えて、すべての授業を再編成するために必要なメッセージを作成しては教員たちと学生たちに送り、同僚とメールのやりとりをするということをずっと繰り返していた。その合間にネットでの状況確認も一時間おきくらいに行った。
 それに加えて、西田幾多郎はどのくらいフランス語が読めたかと人からメールで尋ねられて、それに書誌的根拠を示して答えるために全集を取り出して論文、随筆、日記、書簡を調べもした。
 ずっとPCの画面を見続けたから眼精疲労がひどい。今日はもうやめたい。こんなことにならなければ、今週月火に行った試験の答案の採点をするはずだったのに。それは全部後回しだ。
 幸いなことに、学科の教員たちは迅速に今回の想定外の事態に対応し、それぞれの授業の再編成とネットを活用した授業展開を準備してくれた。有能な彼らの献身には心から感謝している。今のところ、学生たちからの問い合わせもほとんどない。大学上層部からの連日のメールが功を奏しているのだろう。確かなことは、私がいなくなっても学科はなんの問題もなく機能するということだ。
 今回の事態は一月半ばの学期開始当初にはまったく想定されていなかった。新型コロナウイルス感染拡大はまだほとんど他人事だった。それが今では世界でもっとも感染拡大が深刻なのは欧州である。
 それにしても今回の一連の緊急措置はなぜかくもドラスティックなのだろう。イタリアは国全体を隔離してしまったし、スペインもフランスもその例に倣いかねない勢いだ。これらの措置は感染拡大を抑制するには有効かもしれないが、それに伴う経済的損失は莫大であり、家庭生活も大混乱している。日用品の流通も滞りはじめていることが買い物に行くとわかる。いったい誰のための措置なのか。
 何かコロナウイルスを抑え込むことそのこと自体が至上命令化していて、そのためにはどんな犠牲も仕方がないと言わんばかりの措置が取られるのはなぜか。感染拡大抑制だけがこのような極端な措置の理由ではないように思えてしかたがない。まさか陰で糸を引くフィクサーがいるとは思わないけれど。
 学校が閉鎖になって喜んでいる若者たちもいるかもしれない。しかし、閉鎖が何週間も続けばストレスが過剰に溜まることは目に見えている。コンサートもスポーツイベントも中止が相次ぎ、公共施設も閉鎖、50人を超える集会は禁止、こんな状況下でエネルギーの発散場所がどこにもなければ、普段はおとなしい子たちだって「切れて」もしかたがないだろう。今回の措置が青少年犯罪の増加に加担しないともかぎらないという懸念が頭をよぎる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


コロナウイルス・パンデミックは人類の危機管理能力の試練の時

2020-03-13 14:34:04 | 雑感

 昨晩、マクロン大統領はテレビ放送で来週月曜日からのフランスの全学校機関の閉鎖を宣言した。期間は「次の命令まで」、つまりいつまで続くのか今はわからない。ここまで極端な措置が前触れなしに決定されたことで教育現場は混乱している。今この記事を書いている間にも次から次へと大学当局からコロナウイルス関連のメールが送られてくる。
 いつまで閉鎖が続くかわからない状況下で閉鎖解除後に補講するという選択肢は非現実的である。各教員はにわかに代替教育手段を考案・準備しなくてはならなくなった。確かに、スライド、ヴィデオ、チャット、インターネット授業など、IT技術のおかげでさまざまな手段が可能ではある。だが普段それらを使い慣れていない教員たちにとっては急にそれらを使えと言われても戸惑わざるをえないだろう。それに、実験や実演など実験室やそれなりの設備が備わった教室でなければできないタイプの授業もある。
 私自身の授業に関しては、さしあたり来週は以下のような措置を取るつもりだ。月曜日の日本語のみの授業「日本文明・文化」では、学生たちが教室で私の話を聴くことが重要な部分をなしてはいるが、ヴィデオや映画等をオーディオ・ヴィジュアル教材としても使っているので、そちらにさらに重点を置き、それらの教材を学生各自に自宅で見させ、課題を提出させ、それを添削して返す。火曜日の「近代日本の歴史と社会」では、日本語のテキストを送信し、その翻訳・要約・分析を課題とし、すでに学期末まで準備ができているスライドの来週分のテーマについての仏語小レポートを提出させ、添削とコメントを返す。水曜日の修士一年の演習「近現代思想史」は隔週で組んであるのでまだ四月以降に時間的余裕がある。来週はだから休講にする。木曜日の「近現代文学」は中間試験が予定されていたが、これは延期する。オンライン試験も技術的には不可能ではないが、来週木曜日にはとても準備が間に合わない。ただ、オンライン模擬試験として、来週のために用意した試験問題とは別の課題を出し、制限時間内に答案を送信させるという「実験」を行ってみようかと思っている。
 一日も早い閉鎖解除と平常授業再開を願うことでは人後に落ちないつもりだし、感染拡大の遅速化、有効な治療法の早期発見と確立、そしてもちろんパンデミックのあまり遠からぬ終息を願わずにはいられない。コロナウイルスで亡くなられた方々には心からの哀悼の意を表します。
 と同時に、こうも思っている。個人の力ではどうしようもなく、家族-友人・知人間-街-地域-地方自治体-国家-国家間関係-世界というそれぞれに異なったレベルでの冷静かつ適切な対応と行動が要求される現在の状況は、人類の危機管理能力が試されている試練の時ではないか、と。その試練の中で、私たちが今まで自明の前提としてきたことどもの再検討が不可避となり、壊れたものの再構築だけでは済まされず、既存システムの強化・改善・改良・改革等が喫緊の課題であることが自覚されはじめている。と同時に、この試練は、これまで「普通」だった働き方や生活の仕方の見直しを私たちに強いずにはおかない。それだけではない。この試練は、流通経済のあり方、科学と政治との関係、自然への人類の態度、そして世界の見方そのものを根本から問い直すことを私たちに迫っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


学生発表と日本近代詩の華の小箱

2020-03-12 19:59:53 | 講義の余白から

 コロナウイルス感染拡大のせいで今月予定されていた日本の大学の学生たちとの合同プログラムはすべて中止となってしまったが、こちらの学生たちの中にはそのときのために口頭発表を準備していた者もいた。せっかく準備したのだから発表希望者があればと、中止が決定された直後に尋ねたら、二人希望者があった。
 今日「日本近現代文学」の授業でその二人がペアで日本語とフランス語で発表した。テーマは日本近現代文学に関係があれば何でもよいとしてあったので、二人は自分自身が読み特に興味がある作品についてパワーポイントを使いながら話してくれた。一人は、プロレタリア文学、特に小林多喜二の『蟹工船』と佐多稲子『キャラメル工場から』、大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』を例に挙げて、作家の社会問題への取り組みについて話した。もう一人は川上弘美について話した。その作品を読んだことが自分の文学への興味をいかに深めてくれたか話した。どちらもよく準備された発表であった。日本の大学生に聴いてもらえなかったのが残念である。
 さて、今日の授業が来週の中間試験前の最後の授業であった。以前に述べたとおり、この授業は後期をサバティカルで授業から外れている同僚のピンチヒッターとして担当している。だからもともと私が担当している授業のように好き勝手にはできないので、先週までは教科書にそって粛々と授業を行ってきた。漱石・鴎外から始まって芥川まで話した。後期前半最後の今日一回だけ、少し自由にさせてもらった。
 これまでの近現代文学の授業はどうしても小説中心になり、それに若干文芸批評が加わる程度というのが基本的パターンだったようである。限られた時間数からして当然の選択だと思う。だが、近代詩も学生たちに是非知ってほしいとこの授業の担当が決まったときから思っていた。それを今日実行に移した。
 教科書の近代詩の節を一通り読んだ後、今朝早起きして半日かけて作った近代詩のミニ・アンソロジーを紹介した。たとえミニという限定をつけてもアンソロジーという言葉は大げさだが、それはともかく、日本近代詩の精華のいくつかを朗読した。小説について話しているときも、時間の許すかぎり、漱石、鴎外、荷風、谷崎、芥川らの作品の一部を朗読した。文学作品の音を耳で直に感じてほしいからだ。特に、詩の場合、たとえ言葉の意味や微妙なニュアンスはつかめなくても、言葉の響きや詩句のリズム・音楽性は感じることができる。
 藤村の「初恋」、上田敏の『海潮音』からボードレールの訳詩二篇「信天翁」「人と海」(原詩対照付)、白秋の『邪宗門』から「陰影の瞳」、高村光太郎の「道程」、宮沢賢治の「永訣の朝」(仏訳付)。ここまでで時間切れ。萩原朔太郎の『月に吠える』から「見しらぬ犬」も紹介したかったのだが、これは試験の後に回すことにした。
 これをきっかけに学生たちが近代詩にも興味をもってくれると嬉しい。