内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

その人が生きた時代の空気を感じ取る感性

2021-03-21 20:15:28 | 講義の余白から

 明治思想史を語るとき福澤諭吉はどうしても避けて通れないから、毎年授業で取り上げる。取り上げる以上は福澤の功績を主に述べることになる。せいぜい一二回話すだけであるから、話題にしておいて、わざわざ粗探し捜しをしたり、貶したりすることはしない。
 思想家としての福澤が好きか嫌いかと問われれば、あまり好きではないと答えざるを得ない。嫌いというのではないが、熱心な読者にはとてもなれない。胸のすくような啖呵を切っている章節は読んでいて痛快だが、思想的深みに欠けていて、つまらないなあと思ってしまうことのほうが多い。
 それはともかく、授業では、『学問のすすめ』や『文明論之概略』の一節を私が声に出して読む。思想内容だけでなく、福澤の文体(つまり思考のスタイル)を耳で感じてもらいたいからだ。その文体は、現代日本語ともいわゆる古典文学とも擬古文とも漢文調とも違う。明治の日本語の清新な息吹だ。例えば、『文明論之概略』の中の「権力の偏重」を弾劾する箇所は、まるで歌舞伎役者が大見得を切っているようだ。
 先達の稚拙や単純や齟齬や不明を笑うことは簡単だ。でも、その人が生きた時代の空気を感じ取る感性を身につけることのほうが百倍大切だと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


二つの異なったコースの学生たちを教えてわかったこと(承前)― 近い将来の「オワコン」からの提言

2021-03-20 10:56:03 | 講義の余白から

 日本学科の学習目標設定は曖昧だと言わざるを得ない。そのような批判は外部からも私の耳に届いている。学部の三年間を終えて、学生たちは授業を通じていったい何を身につけたと胸を張って言うことができるだろうか。もちろん、日本語と日本文化・歴史・社会・文学等について多くのことを学んだとは言えるだろうが、そのような知識の寄せ集めだけでは、その後の彼らの職業生活の役に立つ「道具」あるいは「武器」にはならない。マスターに進学するとしても同じことだ。
 彼らの本当の学習達成度は、科目毎に数値化された成績だけは測れない。現状では、かなり優秀な成績で卒業した学生であっても、さて自分はいったい三年間で何を身につけたかと自問すれば、明確な答えは見つからないだろう。それは彼らのせいではない。そうなるような一貫性がありかつ段階的な訓練プログラムをこちらが提供していないからだ。そもそもそのための方法論さえない始末だ。すべてに関して中途半端な知識を、しかも系統性もなく学ばせるカリキュラムは、いい加減終わりにすべきだ。
 少なくとも学部に関しては、徹底した「実学」重視を明確に打ち出すべきだと私は思う。目標設定を漸進的かつ具体的に提示し、達成度を明確に判定し、学生たちが次のステップに進むために即使える「技術」を身に着けさせ、その技術を実践的に適用するための「道具」の使い方を訓練する。そのために現在の授業の総時間数を全部使ったとしても足りないくらいだ。あれもこれも少しずつではなく、「これ」だけは何があっても三年間でしっかり身に付けろ、とはっきり示せるプログラムを提供すべきだ。こんなこと、当たり前ではないか。
 そのようなプログラムが本当に実現すれば、私はそれに対して完璧に無能・無用であり、当然の帰結として、お払い箱である。文字通り、「オワコン」である。諦念とともにそれを受け入れる準備はできている。でも、その前に定年になるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


二つの異なったコースの学生たちを教えてわかったこと

2021-03-19 23:59:59 | 講義の余白から

 ストラスブール大学で日本語を専攻している学生たちは、二つのコースに分かれている。一つは日本学科の学生たちのためのコースで、これは日本語をおよび日本社会・文化・歴史・文学を主専攻とする。選択科目以外はすべて日本関連の授業ばかりである。もう一つは、Langues étrangères appliquées(=LEA)で、日本語に訳せば「応用外国語学科」とでもなろうか、二つの外国語に加えて職業生活に直結する実学を中心とする学科である。両者の間には、学習内容・到達目標に関する違いだけでなく、LEAの学生の20%は主にヨーロッパの他国からの留学生であるのに対して、日本学科にはほとんど留学生はいないという違いもある。
 一年次では、日本語に関しては、両コースとも同じカリキュラムを履修する。基本的に学習内容に差はないし、評価基準も原則同一である。私が学科長になる前は、両コースの全学生をアルファベット順でクラス分けしていた。つまり両コースの学生たちが同じクラスに混在していた。
 しかし、実際には、学年が始まって二月もすれば、日本語能力に関して両コースの学生たちの間にかなり歴然とした差が出てくる。それは無理もない。日本学科の学生は日本語だけを勉強していればいいから、宿題をこなすのに十分な時間がある(はずである)。ところが、LEAの学生たちは、英語、英米の歴史・社会・政治経済、ヨーロッパ史、国際商法、マーケティング、ジャーナリズム、フランス語ライティング実習(これが無茶苦茶厳しくて、前期は半数以上が落第点をくらう)など、かなり多岐に渡る科目も併修しなくてはならない。全体の学習量が非常に多く、成績評価も全般にかなり厳しい。したがって、すべての科目で良好な成績を収めることは容易ではなく、年間を通じて自律的な学習計画を自分でマネージできないとすぐに脱落してしまう。
 そこで、私が学科長になってから、段階的にだが、二コースの学生たちの日本語の授業をコースごとに分け、それぞれのコースの目的により沿った授業内容・学習量になるように改定作業に着手した。しかし、その作業はまだ道半ばで、完全に分離するまでには少なくともまだ二年はかかるだろう。三年生については、二クラスに分けるだけの予算的余裕も時間的余裕も今のとろこなく、いまだ混在クラスのままである。
 LEA の三年生まで「生き残った」学生たちの中には総合的に優秀な学生が多い。私は今年度初めてLEAの学生たちと日本学科の学生たちとが混在する二つの授業を担当した。「メディア・リテラシー」と「上級日本語」(こちらは後期のみ)である。前期は14名、後期は13名が履修している。彼らは概して優秀かつ真面目だが、日本語能力に関しては、日本学科の学生たちと比べて明らかに劣る。これは無理もなく、彼らの責任ではない。カリキュラムの問題である。日本学科の学生たちと同じ日本語レベルを要求するのは彼らに酷である。
 そこで、今年度、遠隔授業の利点を生かして、日本学科とLEAを完全に分離した。ただし、時間数はどちらも半分になる。その欠を補うために、課題を多くした。学生たちにとっては、それだけ自宅での学習時間が増え、セルフマネージメントが大変だと思うが、課題を出した側のこちらも添削作業はかなりの仕事量で、毎週添削に追われている。
 その添削を通じてわかったことは、LEA の学生たちの日本語の作文能力は「上級」どころか「中の下」といったところだが、フランス語の文章力は概して高いことである。それはあきらかに三年間通じて課されるフランス語ライティング実習の成果である。いい意味で彼らは「型」を身に着けている。文法・綴りのミスが少なく、構成のしっかりした文章が書ける。しかも、かなりタイトな締め切りを課しているのに必ずそれを守る。よく訓練されているのだ。これはマスターに進学するにしろ、すぐに就職するにしろ、必須のスキルを彼らが身につけているということだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


〈信〉の根拠は本来自己の裡にあるものではない ― 三木清「懐疑について」に触発されて

2021-03-18 16:36:16 | 講義の余白から

 昨日の記事の続きとして、もう一点触れておきたいことがある。
 演習では、できるだけ議論が活発になるようにしたいと常々思っているのだが、実際はなかなか思うようにいかないことが多い。ところが、昨日の演習では、一人の学生が積極的に発言してくれたおかげで、それが呼び水となり、他の学生たちも発言してくれるようになった。結果として、かなり実のある議論ができたのではないかと思う。

 自分では疑いながら発表した意見が他人によって自分の疑っていないもののように信じられる場合がある。そのような場合にはついに自分でもその意見を信じるようになるものである。信仰の根源は他者にある。それは宗教の場合でもそうであって、宗教家は自分の信仰の根源は神にあるといっている。

 「懐疑について」から引用した上掲の段落について、まず私の方から、論理に飛躍があるのではないか、あるいは議論が破綻しているのではないかと、三木清の文章に対してかなり批判的な個人的見解を述べた。それは半ば学生たちを挑発するためであった。昨日はそれがうまくいった。
 私の批判的見解は以下の通り。
 自分は疑いながら発表した意見を他人が真に受けてくれ、すっかり信じ込み、それに一片の疑いも持たない。それを目の当たりにして、最初は疑いながら発表した私もその自分の意見を信じるようになる。こういうことはあるかも知れない。信じてくれる他人が増えれば増えるほど、私の信も強化される。このように、他者の信によって己の信が支えられ、ついには疑いが払拭されるということはあるかも知れない。しかし、他人の信によって己にも信がもたらされるということと信仰の根源として他者の問題とは、それぞれ別次元に属する問題なのではないのか。ましてや、宗教における神への信仰の問題が自己の信の他人の信への依存性という問題と同断に論じ得るとは考えにくい。この段落の前半と後半とには、論理の飛躍あるいは不整合あるいは断絶があるのではないか。
 これに対して、ある学生が以下のような反対意見を述べた。
 前半は、一般的に私たちにありうる経験を例として挙げ、信じるということの根拠が自分のうちにはないことの例証とし、後半は、そのテーゼをまず信仰一般に当てはめ、さらに神への信仰へ適用し、およそ〈信〉の根拠は本来自己の裡にあるものではないということを主張しようとしていると読めば、この段落全体を整合的に読める。
 おそらく学生が提示した読みは三木清の意図に沿った理解だと言えよう。しかし、こう結論づけただけで話が済むような問題ではない。
 「懐疑について」の中では、懐疑と独断とが対立的かつ相補的なものとして考察されている。それはそれで妥当な議論だと思う。しかし、独断と信とは違う。懐疑の問題を突き詰めていけば、自ずと〈信〉の問題に行き当たらざるを得ない。「信じる」とはどういうことなのか。〈信〉の根拠はどこにあるのか。〈知〉と〈信〉とはどのような関係にあるのか。「懐疑について」の読解を通じて、私たちはこれらの問題の前に立たされていることを確認したところで今回の演習を終えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「いかなる人も他を信じさせることができるほど己を信じさせることができない」― 三木清「懐疑について」より

2021-03-17 23:59:59 | 講義の余白から

 修士一年の「近現代思想史」の演習で三木清の『人生論ノート』を読んでいることは先日の記事で話題にした。今日がその第三回目だった。「懐疑について」を読んだ。演習に先立って、九人の学生たちには同エッセイの全訳を提出させた。全員締め切りまでにちゃんと提出してくれた。構文的には難しくなく、かつ欧文に影響された言い回しも少なくないので、概して訳しやすい文章だったこともあるが、学生たちの訳は大変いい出来だった。演習前にそれらすべてに目を通し、必要最低限の添削を施し、演習の中に特に問題にすべき箇所をあらかじめ選んでおいて演習に臨んだ。
 私にとって大変興味深かったのは、彼らのうちの半数以上が誤訳した一文である。その一文に始まる段落全体を引こう。

 いかなる人も他を信じさせることができるほど己を信じさせることができない。他人を信仰に導く宗教家は必ずしも絶対に懐疑のない人間ではない。彼が他の人に滲透する力はむしろその一半を彼のうちになお生きている懐疑に負うている。少なくとも、そうでないような宗教家は思想家とはいわれないであろう。

 半数以上の学生が最初の一文の意を逆にして訳してしまっていたのである。つまり「いかなる人も己を信じさせることができるほど他を信じさせることができない」としてしまっていたのだ。段落の文脈からして誤解の余地はないと思われる一文である。にもかかわらず彼らが逆の意味に誤訳してしまったのはなぜだろうか。不注意と思慮不足と言ってしまえばそれまでだが、他の部分はよく訳せていた優秀な学生の中にも同様な誤訳があった。
 彼らには三木の考えが受け入れがたかったのである。あるいは、自分の「常識」に照らして、三木の考えを「修正」してしまったのだ。彼らは、他者よりも自分の方が説得しやすいと考えている。あるいは、他者の考えを変えさせることは、自分の考えを変えることより難しいと考えている。しかし、果たしてほんとうにそうであろうか。
 この一文をめぐっての演習での議論はなかなか面白かった。三木の考えに同意するという学生が二人いた。彼らの言いたいことを私なりにまとめると次のようになる。
 他者に対して私たちは修辞法を巧みに用いることによって彼らを信じさせることができるが、信じてはいない自分自身に対してはその同じ修辞法は通用しない。それまで信じていなかったことを自分に信じさせることは、他者を信じさせるよりはるかに難しい。
 確かに、不信から信へと己を自力のみで転回させることはとても難しい。演習での議論を通じて、私たちは〈信〉という問題の核心にいささかでも迫れたのではないかと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「歩行」と「鳥瞰」の往復運動を繰返し、知的柔軟性を鍛え、一定の視点に固着しないための訓練

2021-03-16 00:00:00 | 講義の余白から

 『翻訳語成立事情』の「近代」の章は、「二 翻訳語分析の方法」という短い節のみ授業中に読む。同章の残りは、今月のレポートの課題テキストとした。「近代日本における、特にアジア太平洋戦争期における、「近代」という語の当時の日本の知識人たちによる用法の特異性とそこに見られる問題点は何か」という問いが課題である。この問いそのものは3月1日に学生たちには告知してあり、レポートの締め切りは今月末である。つまり、一ヶ月時間をあげるから、ゆっくり考えてみなさいという親心である。といっても、学生たちの多くは締め切り間近になって課題に取り組むに過ぎないのであるが、授業中、折に触れて、課題のヒントになるような話題に言及するようにはしているから、本人たちにそのつもりはなくても、徐々に課題についての思考が深まるようには配慮している(というか、期待している)。
 参考文献として挙げたのは、Pierre-François Souyri, Moderne sans être occidental, Gallimard, 2016 ; Jacques Le Goff, Histoire et mémoire, Gallimard, col. « Folio Histoire », 1988 ; Jacques Le Rider, Modernité viennoise et crises de l’identité, PUF, 2000.
 近代日本における「近代」の特異性を当時の史料に基づきながら歴史的文脈に即して考察しつつ、その問題を「近代性」「欧米とアジア」というより一般的なパースペクティヴの中に位置づけ相対化し、多角的・多元的に分析する。いわば「歩行」と「鳥瞰」との往復運動を絶えず繰返し、知的柔軟性を鍛え、一定の視点に固着してしまわないように自分を訓練すること、それが課題の目的である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本は「社会(コンヴィヴィアリテ)」のない国か

2021-03-15 14:21:27 | 講義の余白から

 「近代日本の歴史と社会」の授業では、柳父章『翻訳語成立事情』の中から最初の二章、「社会」と「個人」のみを全体として取り上げる。先週は、Society の訳語としての「人間交際」に込められた福沢諭吉の翻訳方法を詳しく見た。明日の授業では「社会」の章の後半を読む。そこでは特に『学問のすすめ』における「世間」と「社会」の対立を見る。この点については昨年の授業でも取り上げ、このブログでもその要点について2月5日の記事で言及している。
 今回は、「社会とは何か」という問題をもう少し深く掘り下げたいと思うので、『翻訳語成立事情』の「社会」を読み終えた後、菊谷和宏の『「社会」のない国、日本』(講談社選書メチエ 2015年)の一部を読む。本書自体大変興味深い内容で、二三回かけて読んでもいいくらいなのだが、今年度はすでに立てた年間計画に収まる範囲で読むだけにとどめる。
 ただ、書名の中の「社会」のルビとして用いられている「コンヴィヴィアリテ」(convivialité)については特に説明しておきたいと思っている。これはごく日常的なフランス語であるが、菊谷氏も述べているように、きわめて日本語に訳しづらい言葉だ。フランス語で話している時には容易に理解し使うことができても、日本語にはこれといった対応語がない。「その理由は、このフランス語に対応する単語が日本語に存在しないということ以前に、この語が示す現実、この語を裏打ちする経験―つまり社会を成すという経験―が日本に存在しないからのように思われる」という菊谷氏の見解は、『翻訳語成立事情』での柳父章の論法とピタリと重なる。
 しかし、菊谷氏が同書で「コンヴィヴィアリテ」に与えている意味は、必ずしも日常的な用法によって説明され尽くすものではない。その語源的な意味である「共に‐生きる」に立ち返るだけ済むことでもない。では、なぜこの語を「社会」のルビとして用いたのか。菊谷氏自身、この問いに、同書一冊かけて、いや前著『「社会」の誕生―トクヴィル、デュルケーム、ベルクソンの社会思想史』(講談社選書メチエ 2011年)もあわせて、答えようとしている。氏の「コンヴィヴィアリテ」論は、だから、両書をあわせ読むことによってはじめてよく理解できるだろう。
 しかし、これも来年度以降に取り上げるテーマとすることにして、明日の授業では、この語の日本語への翻訳の困難さが示唆している近代日本社会の病理とこの語に象徴される現代思想の課題とをよりよく理解するための手がかりとして、現代産業社会のなかでの人間的な生活の再生を強く訴えたイヴァン・イリイチの La convivialité(1973)を参考文献として紹介する。菊谷書にはイリイチのこの本への言及はまったくないが、「社会とは何か」という問題を現代社会の問題として考えるために、コンヴィヴィアリテが重要な鍵概念の一つであることは確かであり、イリイチの本は今もなおその価値を失っていないと私は思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「日本の言語的近代」から「翻訳と近代日本」へ

2021-03-14 23:59:59 | 講義の余白から

 「近代日本の歴史と社会」の後期は、「日本の言語的近代」というテーマの下、イ・ヨンスクの『「国語」という思想』(岩波現代文庫 2012年 初版 岩波書店 1996年)を二回に渡って読むことから始めた。補助テキストとして、本書の元である博士論文の指導教官である田中克彦の『ことばと国家』(岩波新書 1981年)も読んだ。
 第3・4回目は、私自身が2017年3月にストラスブール大学とCEEJAとで開催された国際シンポジウムで行った研究発表「もう一つの近代の超克:「国語」の「主体」とその運命」をほぼ全部紹介した。この発表原稿は今年中に刊行される予定の同シンポジウム論文集に収録されている。その仏語の完成原稿を基に話したわけだが、時枝誠記の『国語学原論』における主体論と時枝が京城大学時代に発表した二つの言語政策論とを立ち入って分析するかなり込み入った議論なので、補足説明を加えながらの紹介であった。
 3月は5回授業があるが、そのうち最初の三回は、「翻訳と近代日本」というテーマで話す。まずは、軽く話題に触れるところから入るつもりで、飛田良文の『明治生まれの日本語』(角川ソフィア文庫 2019年 初版 2002年)を取り上げ、明治期の言語的現実をざっとスケッチするところから始めた。本書は、当時の文献が縦横に引用されていて、それらは興味深いし、そこからいろいろなことがわかって面白い。しかし、明治生まれの言葉の思想的背景についてはごく簡単かつ表面的にしか言及されておらず、授業の教材としては物足りない。
 前回から読み始めたのが柳父章の『翻訳語成立事情』(岩波新書 1982年)である。出版から四十年近く経過し、その後の研究によって訂正されなければならない箇所ももちろんあるが、「翻訳と近代日本」あるいは「日本における近代知と翻訳」というテーマに関して学部の授業で取り上げるのに現在でも最も適したテキストの一つだと思う。個々の仮定と推論には承服しかねるところもあるが、「どのようにして西欧起源の言葉を近代日本語の中に取り入れるか」「そこにどのような思想的な問題が隠されているか」という問題を考えるとき、その端緒を与えてくれるテキストして今も貴重な一冊だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


現代デモクラシーの「隘路」としてのポピュリズム ― 水島治郎著『ポピュリズムとは何か』

2021-03-13 23:59:59 | 読游摘録

 昨日の記事の最後の段落で言及した宇野重規の『民主主義とは何か』の「序 民主主義の四つの危機」の中で言及されているもう一つの本のことを書き留めておきたい。それは水島治郎の『ポピュリズムとは何か』(中公新書 2016年)である。本書は2017年の石橋湛山賞を受賞している。
 ポピュリズムの問題は二十一世紀に入って世界的な広がりを見せており、フランスも例外ではない。実際、本書でも、フランスの国民戦線の歴史的展開についてとマリーヌ・ルペンによる国民戦線の現代化についてのそれぞれ数頁に渡る記述が見られる(第3章と第7章)。そこを読んだだけでも、事実に即した正確でバランスの取れた記述が全編を貫いているであろうことが期待され、「はじめに」から順を追って読み始めた。これは喜ばしい書物連鎖の例である。
 本書は、ポピュリズムを理論的に位置づけたうえで、ヨーロッパとラテンアメリカの主たる舞台とし、日本やアメリカ合衆国にも触れながら、ポピュリズム成立の背景、各国における展開と特徴、政治的な影響を分析する。それらの国々の政治史をさかのぼりつつ、ポピュリズムの具体的な展開過程を追っている。その過程を通じて、ポピュリズムとデモクラシーとの両義的な関係が歴史の中から浮かび上がり、現代デモクラシーにポピュリズムが突きつける問いが明らかにされていく。
 第1章は、ポピュリズムとは何かという問題に理論的に迫っており、その分析は明晰この上ない。予備知識がなくても、論述を追っていけば自ずと何が問題なのかがすっきりと頭に入るように書かれている。
 第2章以降、各地域のポピュリズムが個別に考察されていく。第2章「解放の論理―南北アメリカにおける誕生と発展」、第3章「抑圧の論理―ヨーロッパ極右政党の変貌」、第4章「リベラルゆえの「反イスラム」―環境・福祉国家の葛藤」、第5章「国民投票のパラドックス―スイスは「理想の国」か」、第6章「イギリスのEU離脱―「置き去りにされた」人々の逆転劇」、第7章「グローバル化するポピュリズム」と続く。
 「はじめに」と「あとがき」とから、それぞれ一箇所ずつ引用する。ちなみにこの「あとがき」はトランプがアメリカ大統領当選を決めた月に書かれている。

特に本書を通じて提起したいと考えているのは、ポピュリズムはデモクラシーに内在する矛盾を端的に示すものではないか、ということである。なぜなら、本書で示すように、現代デモクラシーを支える「リベラル」な価値、「デモクラシー」の原理を突きつめれば突きつめるほど、それは結果として、ポピュリズムを正当化することになるからである。

二一世紀の欧洲ポピュリズムは、現代デモクラシーの依拠するリベラルな価値、デモクラシーの原理を積極的に受け入れつつ、リベラルの守り手として、男女平等や政教分離に基づきイスラム移民を批判する。またデモクラシーの立場から、国民投票を通じ、移民排除やEU離脱を決すべきというロジックを展開する。現代のポピュリズムは、いわばデモクラシーの「内なる敵」(ツヴェタン・トドロフ)として立ち現れている。その論理を批判することは、容易なことではない。

 本書と宇野氏の『民主主義とは何か』を併せ読むことで、現在のデモクラシーがどのような問題と正面から向き合うことを求められているのかがよくわかる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


書物連鎖の症例紹介 ― ステージ3

2021-03-12 19:08:01 | 読游摘録

 食べ物を無理に体内に詰め込めば体に良くないことは、いかに愚鈍な老生もわかっているし、健康維持のために食事には気をつけているので、過食・偏食はまったくしない(小豆は例外)。そのへんはかなりストイックである(と本人は思っている)。ところが、書物に関しては、完全に快楽主義に走っている(いや、暴走している)。
 たとえば、先日、こんな書物連鎖があった。礫川全次の『日本人は本当に無宗教なのか』(平凡社新書 2019年)を来年度の授業で参照することになるかも知れないと読んでいたら、磯前順一の『近代日本の宗教言説とその系譜』(岩波書店 2003年)から「国家神道」に関する一節が引用されていた。そこが気になって、引用の前後が読んでみたくなった。さっそくAmazonで検索すると、初版は古本でしか入手できないし、ちょっと高い。オンデマンド版の方が少し安い。オンデマンド版は、良書を絶版にしないための手段なのはわかるけれど、印刷製本のコスト削減ためとはいえ、いかにも造本が安っぽくて嫌いなのだが、この本はどうしても入手したくなり、発注した。どうせ日本の Amazon に発注するなら、一冊だけではなく、別の本も合わせて買おう、そうすれば送料も割安だと自分に言い聞かせ、磯前氏の『喪失とノスタルジア』(みすず書房 2007年)も注文する(もう訳がわかりません)。DHLの配送は概して迅速だ。2月25日に発注して3月1日に届いた(満足ですか?)。
 同じく『日本人は本当に無宗教なのか』の中で、鵜飼秀徳の『仏教抹殺』(文春新書 2018年)が「全国各地に「廃仏毀釈」の跡を訪ねて、その実態を明らかにした労作である」と評価されている。「廃仏毀釈」は、今年度の近代史の授業でも取り上げ、学生たちの関心度も高かった(安丸良夫の『神々の明治維新』(岩波新書 1979年)を原文で読んでレポートを書いた学生さえいた)ので、来年度はさらに踏み込んで取り上げたいと思っていたところであった。当然、「これは買いである」と即断、すぐに電子書籍版を購入。同書での鵜飼氏の問題へのアプローチの仕方に興味を持ったので、同氏の『「霊魂」を探して』(角川学芸出版 2018年)と『ペットと葬式 日本人の供養心をさぐる』(朝日新書 2018年)もほぼ同時に購入する。
 先月から授業で宇野重規氏の『民主主義とは何か』(講談社現代新書 2020年)を読んでいる。その中で紹介されているブランコ・ミラノヴィッチの「エレファント・カーブ」について学生たちに知っているかと聞いたら知らないと言う。これは説明せにゃあならんということで、『大不平等 エレファント・カーブが予測する未来』(みすず書房 2017年)の英語原書 Global Inequality. A New Approach for the Age of Globalization, 2016 とその仏訳 Inégalités mondiales. Le destin des classes moyennes, les ultra-riches et l’égalité des chances, 2019 も購入し、紹介スライドを作成する。この仏訳には、日本でも超有名なトマ・ピケティが序文を寄せている。その中に実に簡潔明瞭なエレファント・カーブの説明があるので、それを学生たちに紹介した。最初は「エレファント・カーブ? 何それ」という感じだった学生たちもよく理解できたようであった。そのピケティに敬意を表して(って、このへんがよくわからないのですが)、かの世界的大ベストセラー Le capital au XXIe siècle(2013 邦訳『21世紀の資本』みすず書房 2015年) も購入した次第である。