こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

1981年3月革命~永遠に未完をはらんだアルバム『BGM』の誕生~②

2010-07-17 05:48:18 | 想い出かたちんば
1980年末までの3人の抑圧は、1981年3月の「BGM」・それを経て、松武秀樹さんが作った世界初のサンプリング・マシンを全面的に使った11月の「テクノデリック」に結びついていく。
そして、年末の「YMOウィンターライブ1981」で、1981年を終えることとなる。

「BGM」「テクノデリック」を「YMO中期」と呼ぶ人も多い。

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「YMO初期」が、3人それぞれがスタジオ・ミュージシャン&ライブでもテクニック&技量のある「ミュージシャン」であった事を一切捨て去り、コンピューターという「テクニック&技量」を必要としない「ミュージシャン」を捨て去る音楽への対峙という過激な時期を経て、それが大衆に異常なほど受け入れられる1980年末までの時期とすると、

「YMO中期」とは、そういう状況への反動と意志を持った「新しいYMO」の姿を作った模索の結果結実した2枚の、今だにフォロワーの絶えない優れたアルバム創出の時期を指している。

この中でも、その「新しいYMO」の姿を決定づけたという「BGM」のB面1曲目の「CUE(キュー)」という曲が、その後、2010年に至るまで、様々な形で演奏される事になる。
この曲は、当時精神不調だった教授不在のまま、細野さんと幸宏の2人で創られている。

というか、よく言われる事ではあるが「BGM」はプロデューサー細野さんが主導権を握ったアルバム/「テクノデリック」は教授主導で創られたアルバムと言われる。

そんな後付けの事はよしとして、やはり「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」⇒「BGM」に移行するには、相当な抑圧がエネルギーに喚化されたものなので、「BGM」⇒「テクノデリック」という比較的筋書きが出来た中での変化とは大きくかけ離れていると、自分は思っている。

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その中でも、細野さんと幸宏の2人は「CUE(キュー)」という曲が出来上がった過程を大事にしている。

細野さん曰く「これは、自分の色でもない。幸宏の色でもない。2人でやると、ある程度、落ち着く色というのが見えるが、その2人いずれでもないところから出てきた事に、ひさびさに背筋が寒くなるような想いがした。」という。

この「CUE(キュー)」という曲は1晩で創られた曲である。

歌詞の方は、ピーター・バラカンが英語化し、言葉を選びつつ、英語の歌い方の指導をしながらサポートを行っているが、細野さん・幸宏で共同作業を進めながら、夜明けに完成したこの「CUE(キュー)」という曲には、2人とも「新しいYMO」が進むべき道を見出したと、疲れ果てた中、2人で「CUE」と書いた紙を持ち記念写真を撮影している。

それは、1981年3月に近いとある夜明けの事だった。

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アルバム「BGM」が結果的に、細野さん&幸宏主体でアルバム作りがされた事への反動もあり、教授は、2人が「新しいYMO」と言った「CUE(キュー)」を「なんだ!これは、ウルトラヴォックスの曲、そのままじゃないか!」と激怒したという記録が残っている。

確かに、当時最先端の音楽を目指し、イギリス⇔日本で情報合戦が行われた日々の中、どちらがどちらに影響を与えたの真は定かでは無いが、ミッジ・ユーロ率いる第2期ウルトラヴォックスとYMOは、相互影響・相互意識をしながら音楽を創っていたのは事実である。

教授の指したウルトラヴォックスの曲とは「パッショネイト・リプライ」という、当時の12インチシングルのB面に収まった曲である。

聴けば確かに、「CUE(キュー)」と「パッショネイト・リプライ」はよく似ている。

しかし、かたちんば自身は、「パッショネイト・リプライ」はしょせんB面になるべき程度の曲に聴こえるが、「CUE(キュー)」はそうではないと想っている。

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この細野さん&幸宏/教授という分裂の有り様は、1982年のYENレーベルを細野さん&幸宏で発足し、かたや教授は清志郎との「いけないルージュマジック」、B-2UNITSでのライブ、戦場のメリークリスマスでの役者出演&サントラ創りと、YMOを二分化していく。

それは、その後も続き、2000年代「スケッチ・ショー」が細野さん&幸宏で創られた背景にも繋がっている。

但し、3人のフラットな関係は、先般述べた1999年の細野さんと教授の和解以降、続いて今日に至る。

実質は、スケッチ・ショーのファースト・アルバムに収まっている「WONDERFUL TO ME」も、ベーシックトラックやキーボードで教授が参加しており、2000年以降の3人の歩み寄りは、今の3人が同等の関係に繋がっているのだった。

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3人で演奏をするとき、必ずこの中期YMOの「CUE(キュー)」という曲は必須な曲として、教授の名曲「ライオット・イン・ラゴス」(第2期ワールドツアーの1曲目であり、かつ、ヒップホップ界では触発された曲としての『元祖』としてあがめられるこの曲)と同時に演奏される。

1981年、「BGM」・「テクノデリック」が出来たところで、YMOは「やりたい事は全てやってしまった」状態になった。
細野さんは、この時点でYMOを解散することをレコード会社に打診するが、解散させてくれなかったというのが、真実であり、それが「アフターYMO」としての1983年「浮気なぼくら」「サーヴィス」での大団円の「散会」でやっとかなったのである。

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その中間である1982年は、それぞれ3人個人個人の仕事が中心となるが、唯一3人で演奏したのが、この下記YOUTUBEでアップされている、TVでの「CUE(キュー)」の演奏である。
僕は、このヴァージョンが、一番レコードのオリジナルな姿に近い緊張感を持っていて好きだ。
この曲は、細野さん&幸宏で創られたため、教授がドラムを叩く形を採っている。
当時、ヴィデオなど無かった時代なので、リアルタイムにTVにかじりついて見ていた。



まあ、実際は、1982年秋以降、「浮気なぼくら」の録音は開始されているが、一度中断をはさんで、1983年に発表される事になるのではあるが・・・・。

この動画の「CUE(キュー)」は、照明に拠る幸宏のホホのコケ具合が実にカッコイイ。

近時、この「CUE(キュー)」もゆったり目の演奏がされる事が多いが、自分はこの真剣な緊張感がみなぎった、このヴァージョンが一番好きである。
コメント (2)
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