買い物の帰り道。相変わらず、写真を撮りながら、あてどなく道をくねくね迷歩するうち、日が沈んだ後の須田町に至った。
街はひっそりと音も無い。
週末の街が、ある時に見せるポカンとした何も無い時空に出会う。
柳森神社前の道を歩き、シャッターをあっちこっちと切りながらふれあい橋を通り過ぎ、神社に着く。
もう門を閉める時間だ。
柵のあいだからシャッターを切り、門を通り過ぎようとすると、降りる石段の暗闇にネコさんを発見。
地面にひざまづき、しばし会話をする。
前に会ったときには、魚肉ソーセージを右手でチョイチョイ転がしながら食べていたが、昨日は、何か思い耽るように、ボウッと何かを見ていた。










■William Ackerman 「Conferring with the Moon」1986■
ウィンダムヒル・レーベルのウィリアム・アッカーマンの、このアルバムCDを買ったのは、2000年以降。
この曲は、昔、深夜のジェットストリームやJ―WAVEでよく流れていた曲だった。
この曲に限らず、アルバム全体に、この静謐な空気が満ちており、夜に気や呼吸を鎮めるために聴くことが多い。

ウィンダムヒルを知ったのは1983年だったが、当時のじふんには違和感があった。
ブライアン・イーノ、そして、彼に共鳴・影響を受けたフォロワーたちが、疲弊する都市生活へのすき間に豊かな時空を見い出すことに使命を費やす事象とは、むしろ相対するものと捉えていた。
アメリカ発信のウィンダムヒルが奏でる音には、広い大地や満ち溢れる自然が背景に見えた。
我々の当時の切迫した状況とは、大幅乖離しており、下手をすると(悪しき意味での)イージーリスニングとも捉えられかねない危険を孕んでいた。
その後「ニューエイジ」なる名称・くくりが与えられ、80年中盤にかけて似たような音楽がたくさん出てくることになる。
このカテゴリーの胡散臭さは、次第に「エコロジー」「新興宗教」と手を結ぶことになる。
そして、ラッセンのリトグラフのように、あたかも地球愛を語っているフリをしながら、幾らでも刷り増し出来るリトグラフは、ギャラリーのフリをしながら詐欺まがいの絵の売り付けに繋がっていく。
わたしにとって、リアルタイム進行の音楽が終焉を迎えた後、1987年以降にFM東京が「アース・コンシャス」なるコンセプトを企業イメージに打ち出したのも、中身や思想なき表層環境主義宣言だった。
結果、この流れが行き着いた先が、1995年のオウム・サリン事件である。

ウィンダムヒルから、それら付き纏った事象を除去して、色眼鏡を外して、音楽そのものとして聴けるようになるには、かなりの時間を要した。
街はひっそりと音も無い。
週末の街が、ある時に見せるポカンとした何も無い時空に出会う。
柳森神社前の道を歩き、シャッターをあっちこっちと切りながらふれあい橋を通り過ぎ、神社に着く。
もう門を閉める時間だ。
柵のあいだからシャッターを切り、門を通り過ぎようとすると、降りる石段の暗闇にネコさんを発見。
地面にひざまづき、しばし会話をする。
前に会ったときには、魚肉ソーセージを右手でチョイチョイ転がしながら食べていたが、昨日は、何か思い耽るように、ボウッと何かを見ていた。










■William Ackerman 「Conferring with the Moon」1986■
ウィンダムヒル・レーベルのウィリアム・アッカーマンの、このアルバムCDを買ったのは、2000年以降。
この曲は、昔、深夜のジェットストリームやJ―WAVEでよく流れていた曲だった。
この曲に限らず、アルバム全体に、この静謐な空気が満ちており、夜に気や呼吸を鎮めるために聴くことが多い。

ウィンダムヒルを知ったのは1983年だったが、当時のじふんには違和感があった。
ブライアン・イーノ、そして、彼に共鳴・影響を受けたフォロワーたちが、疲弊する都市生活へのすき間に豊かな時空を見い出すことに使命を費やす事象とは、むしろ相対するものと捉えていた。
アメリカ発信のウィンダムヒルが奏でる音には、広い大地や満ち溢れる自然が背景に見えた。
我々の当時の切迫した状況とは、大幅乖離しており、下手をすると(悪しき意味での)イージーリスニングとも捉えられかねない危険を孕んでいた。
その後「ニューエイジ」なる名称・くくりが与えられ、80年中盤にかけて似たような音楽がたくさん出てくることになる。
このカテゴリーの胡散臭さは、次第に「エコロジー」「新興宗教」と手を結ぶことになる。
そして、ラッセンのリトグラフのように、あたかも地球愛を語っているフリをしながら、幾らでも刷り増し出来るリトグラフは、ギャラリーのフリをしながら詐欺まがいの絵の売り付けに繋がっていく。
わたしにとって、リアルタイム進行の音楽が終焉を迎えた後、1987年以降にFM東京が「アース・コンシャス」なるコンセプトを企業イメージに打ち出したのも、中身や思想なき表層環境主義宣言だった。
結果、この流れが行き着いた先が、1995年のオウム・サリン事件である。

ウィンダムヒルから、それら付き纏った事象を除去して、色眼鏡を外して、音楽そのものとして聴けるようになるには、かなりの時間を要した。