実家に集合。お袋さんから、ボケ老爺が「正月を迎えるというのに、お供えにコチャコの遺骨があるのは解せん。」と血も涙も無い事を言っていたのを聞いてはいた。
すこし、実家への足が重かったのは事実である。
「そういうことを言うならば、まみちゃんもコチャコの遺骨も全部、じぶんが家に持ち帰り祭壇を作る。」と言っていた。
耳が遠くなった老爺にも、一部の情けはあったようで、実家に行くと「今年の正月は、喪中とすることにした。」とお袋さんから聞く。
すでに兄夫婦は来ていた。
お袋さんは「本人が聞いたら、喜ぶよ。」と老爺に言っていたらしい。
確かに門松も祝いに関するあらゆる備えが、今年は無かった。
行って、コチャコの写真がたくさん飾られたお供えに、お線香をまずは上げた。
帰り道、兄が言っていた。「いまさらだが、あれだけ愛情表現の仕方を知らない不具な不幸なヒトは居ない。」
まあ、そのような中を残り3人は知りつつ、数十年くぐり抜けてきたのだから。
親父を抜いた3人の中では、融和が保たれていれば、じぶんはそれで良い。
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実家に行って兄夫婦と途中で別れて、独り家に戻る。何か空白感がある。
よくあることではあるのだが。帰り道の電車で、兄夫婦にコチャコを看取った最期を、じぶんのクチから話したことが、記憶をよみがえらせたせいだろう。不覚にも、泣きそうになってしまった。
独りで産まれ・独りで死に向き合う生き物たちに比べ、なんとじぶんがヘタレなことだろうか。
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そんなヒリヒリした今の自分の気分と、コチャコへの鎮魂を同時かなえる音楽を。。。とまさぐる。
大量のLPレコードは、もはやどこに何があるのかは分からない。
しばし、探すが見つからないので、ネットでいただいた画像でジャケットを掲載する。
1982年春に、実質YMO解散/分裂をあらわにした細野さんのYENレーベル設立とLDKスタジオでのレコーディング開始。
そのYENレーベルから、1982年10月21日発表された、その名もインテリアというユニットのアルバム。
このアルバムから、あたたかみのある「ホット・ビーチ」を今夜は聴きたい。
■Interior 「Hot Beach」1982■
誰が何と言おうと、コチャコならびに愛したネコたちを絶対にじぶんは守る。
だから、安心して子守唄を聴いて安らかに眠っていていいんだよ。
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後に、NHK-FM「ふたりの部屋」で、新井素子さんの小説「二分割幽霊綺譚」がラジオドラマ化された(超名作)なかでも、このインテリアの「フラミンゴ」は、絶妙な使い方をされていた。
「フラミンゴ」は、モロ、ブライアン・イーノの影響がそのまま出た曲だったが、そもそも、それをプロデュースした細野さん自体がイーノの影響下で、YENからこの手のアーティストを輩出していきたいと思っていた。
「フラミンゴ」は1982年12月に、クロスオーバーイレブンでエアチェックしたテープが未だに手元にある。
「ホット・ビーチ」もよいが「フラミンゴ」も、日本のミュージシャンが(現代音楽ではなく)環境音楽・アンビエントに踏み込んだ名曲だと、じぶんは思っている。
YMOが散会し、年を明けた1984年のお正月。
美しかった西田珠美さんがナレーターをしていた、FM東京の22時からの番組「サントリー・サウンド・マーケット」に、細野晴臣さんがゲストに出演。(別の日には、ピーター・バラカンさんが出演。)
「今後の音楽の流れは?」ということをテーマにした週だった。
細野さんは、そこで、音楽はまだ水面下(マイナー)だけれども、(イーノが垂らした波紋が広がるように・それ以降)次第に静寂にむけた静かなうねりが出来つつある。そんなことを話していた記憶がある。
この日「ホット・ビーチ」と共に、ロスト・ジョッキーなどを細野さんは選曲した。
表面的には、バシバシの打ち込みサウンドがOTTに向かう一方で、都市生活に疲弊した人々の寄る辺となるセラピー音楽が、ひそやかに産まれていった。
ユニット「インテリア」は、この後、ウィンダム・ヒル・レーベルに引っ張られて移籍し、「インテリアズ」と呼称を変更し、アルバムを世界発売させる。
1984年の段階では、その前夜であった。
今でも、さぶい部屋で、「サウンド・マーケット」をエアチェックしていたのを思い出す。