こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2013年1月1日 火曜日 インテリア 「ホット・ビーチ」'82

2013-01-01 22:52:42 | クロスオーバーイレブン

実家に集合。お袋さんから、ボケ老爺が「正月を迎えるというのに、お供えにコチャコの遺骨があるのは解せん。」と血も涙も無い事を言っていたのを聞いてはいた。
すこし、実家への足が重かったのは事実である。
「そういうことを言うならば、まみちゃんもコチャコの遺骨も全部、じぶんが家に持ち帰り祭壇を作る。」と言っていた。

耳が遠くなった老爺にも、一部の情けはあったようで、実家に行くと「今年の正月は、喪中とすることにした。」とお袋さんから聞く。
すでに兄夫婦は来ていた。
お袋さんは「本人が聞いたら、喜ぶよ。」と老爺に言っていたらしい。
確かに門松も祝いに関するあらゆる備えが、今年は無かった。
行って、コチャコの写真がたくさん飾られたお供えに、お線香をまずは上げた。

帰り道、兄が言っていた。「いまさらだが、あれだけ愛情表現の仕方を知らない不具な不幸なヒトは居ない。」
まあ、そのような中を残り3人は知りつつ、数十年くぐり抜けてきたのだから。
親父を抜いた3人の中では、融和が保たれていれば、じぶんはそれで良い。

***

実家に行って兄夫婦と途中で別れて、独り家に戻る。何か空白感がある。
よくあることではあるのだが。帰り道の電車で、兄夫婦にコチャコを看取った最期を、じぶんのクチから話したことが、記憶をよみがえらせたせいだろう。不覚にも、泣きそうになってしまった。
独りで産まれ・独りで死に向き合う生き物たちに比べ、なんとじぶんがヘタレなことだろうか。

***

そんなヒリヒリした今の自分の気分と、コチャコへの鎮魂を同時かなえる音楽を。。。とまさぐる。
大量のLPレコードは、もはやどこに何があるのかは分からない。
しばし、探すが見つからないので、ネットでいただいた画像でジャケットを掲載する。

1982年春に、実質YMO解散/分裂をあらわにした細野さんのYENレーベル設立とLDKスタジオでのレコーディング開始。
そのYENレーベルから、1982年10月21日発表された、その名もインテリアというユニットのアルバム。
このアルバムから、あたたかみのある「ホット・ビーチ」を今夜は聴きたい。

■Interior 「Hot Beach」1982■

誰が何と言おうと、コチャコならびに愛したネコたちを絶対にじぶんは守る。
だから、安心して子守唄を聴いて安らかに眠っていていいんだよ。

***

後に、NHK-FM「ふたりの部屋」で、新井素子さんの小説「二分割幽霊綺譚」がラジオドラマ化された(超名作)なかでも、このインテリアの「フラミンゴ」は、絶妙な使い方をされていた。
「フラミンゴ」は、モロ、ブライアン・イーノの影響がそのまま出た曲だったが、そもそも、それをプロデュースした細野さん自体がイーノの影響下で、YENからこの手のアーティストを輩出していきたいと思っていた。
「フラミンゴ」は1982年12月に、クロスオーバーイレブンでエアチェックしたテープが未だに手元にある。
「ホット・ビーチ」もよいが「フラミンゴ」も、日本のミュージシャンが(現代音楽ではなく)環境音楽・アンビエントに踏み込んだ名曲だと、じぶんは思っている。

YMOが散会し、年を明けた1984年のお正月。
美しかった西田珠美さんがナレーターをしていた、FM東京の22時からの番組「サントリー・サウンド・マーケット」に、細野晴臣さんがゲストに出演。(別の日には、ピーター・バラカンさんが出演。)
「今後の音楽の流れは?」ということをテーマにした週だった。
細野さんは、そこで、音楽はまだ水面下(マイナー)だけれども、(イーノが垂らした波紋が広がるように・それ以降)次第に静寂にむけた静かなうねりが出来つつある。そんなことを話していた記憶がある。
この日「ホット・ビーチ」と共に、ロスト・ジョッキーなどを細野さんは選曲した。
表面的には、バシバシの打ち込みサウンドがOTTに向かう一方で、都市生活に疲弊した人々の寄る辺となるセラピー音楽が、ひそやかに産まれていった。

ユニット「インテリア」は、この後、ウィンダム・ヒル・レーベルに引っ張られて移籍し、「インテリアズ」と呼称を変更し、アルバムを世界発売させる。
1984年の段階では、その前夜であった。
今でも、さぶい部屋で、「サウンド・マーケット」をエアチェックしていたのを思い出す。
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2013年1月1日 火曜日 元旦の朝

2013-01-01 11:49:40 | 雑記帳
10時半に身を起こす。トイレには行きたかったのだが、昨夜勢いに乗って呑んでしまったビール3本が悪く残り、だるくて起きられなかった。
「もう、やはり、お酒なんか呑むまい。」
初日から反省に始まる。
お湯をコンロで沸かして、新しいお茶っ葉で、濃い緑茶を飲む。

どうやら世界は滅亡していない模様である。あれだけぐずついた天気が続いた数日は消えて、雲がカケラもない、まるでポスターカラーで塗ったような青空。

ぼんやりしながらも、焦る心。焦りの元凶は、今日実家に一同集合なのだが、その体制にはなっていないゆえと思われる。
まあ、休みにまで焦る必要はあるまい。
ぼんやりする中でも、カラダの内と外を調整すべく、セラピーとしてBVDUBを掛ける。

■Bvdub 「There Was Nothing But Beauty In My Heart」■


***

昨夜は、うれしいたくさんのお便りへの返事を書いていたら23:30になった。
唯一「ゆく年 くる年」だけを見るために、電子時計で時刻が秒単位で進むのを眺めていた。
23時44分44秒。はいっ、スイッチ・オン。
しかし、今年もしくじった。残り16秒で、意味無き紅白歌合戦「蛍の光」の音・ジャリタレのガッツポーズ・「良いお年を」と言われる覚えの無いコトバを掛けられ、最後に花吹雪の爆弾を浴びてしまう。

誰もが思っているだろうが「ゆく年 くる年」の前1分くらいに告知や番組紹介で、間を取ってもらいたいものである。

だが、今回の「ゆく年 くる年」には、個人的に恣意的なあざとさを感じてしまい、0:00に切る。
東北の復興への祈り、そこから、最後清水寺に移り、馬鹿なコドモが騒ぎピースをする場面、そして、0:00になった途端に「あけましておめでとうございます」。
いかにも現代のテレビ的で、少しも安らがなかった。カンペキなアウトである。

***


雑用を済ませ、ハロゲンヒーターを付けて横になり、撮り溜めた大竹伸朗さんのビデオを見る。
なんだかようわからないものに向けて、あらがい続ける大竹伸朗の生きる旅に、改めて触発される。
「これは酒無しでは見られんな」とごそごそ缶ビールを持ってきて、暗闇の中で、深夜4時近くまで見てしまう。
今朝へろへろで起きて思う。意味があろうが無かろうが、ひたすら自分のもやもやした何がしかへと向けて、やり続けること。そこにしか突破口は無い。

しかし、そんな自分には体力も精神力も明らかに不足している。
仕事もアートも、あるいは何かでも、最近分かり出したのは、そこで残る者は誰か?と言えば、壊れない体力と精神力を持つ者なのだろう、ということ。

仕事で言えば、もはや証人たる周囲が脱落した中「これはオレがやったんだ」と言い、過去の遺産でメシを喰う者。
アーチストは、そんな下界とは異なるものの、生きている限り何かを作り続けなければならない運命。(たとえ同じ曲でも、異なるアプローチや磨きを掛けたり)
そういう意味では、人間界も弱肉強食。
そんな中で、自分は生きていけるのか?そういう思いのよぎる元旦の朝である。
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