こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2013年1月15日 火曜日 「非音楽家」が「音楽家」を凌駕する瞬間

2013-01-15 22:55:22 | 音楽帳


「非音楽家」が「音楽家」を凌駕する瞬間。タイトル通り(笑)。
といったら、これ以上書く必要は無くなるのだが。。。

昨日、マイケル・オシェア(と読むのかな?)の曲を紹介したが、思えば大竹伸朗さんが当時FM放送で紹介してくれた音楽のすべてが、ある意味「非音楽家」的要素のものであった。

それを「世間」のコトバで直すと「パンク」的とも言えるのかもしれない。
楽器が出来なくても、内包されたエネルギーを何らかの音に変えて伝えること。それが、70年代後半に起きた事件ではあった。
しかし、それを「パンク」とくくってしまうには、いささか乱暴過ぎる。パンクと言えば、セックス・ピストルズ、ダムド、クラッシュ、ジャム・・・となりがちなのだが。それは、ある時代の流れを経て、目立って残ったものを指しているに過ぎない。

***


大竹伸朗さんが紹介した曲は「必ず、どっかでイーノと繋がっている」と語る系譜に沿っていた。それは、大竹さんの中に刻まれた/体感した系譜という意味でだが。

たとえば、ニューヨークにてブライアン・イーノが発見し・狂喜した「異質で奇妙な生命体」の音を集めて「ノー・ニューヨーク」として提示したこと。
あるいは、ロキシー・ミュージックから脱退し(実質は、ブライアン・フェリーより目立って・人気もあり、バンドに2人の中心人物は要らないことに拠る)ソロとしてスタートしたブライアン・イーノのアルバムの奇妙さ。

彼は、じぶんを「音楽家」と呼ばれることを一貫して嫌っていた。
元々は、テープレコーダーの可能性や偶然が作り出す何かに興味を持ち、楽器を訓練によって鳴らすことが出来るのとは異次元の世界を追及していた。
ロバート・フリップのようなギターの素養を持った天才が、自由自在に音にその天才ぶりを展開出来る能力を持つ例は少ない。
大抵は、テクニックを磨く間に、その訓練に溺れることで、元々鳴らそうとしていた初期衝動の過激さを打ち消してしまい、くだらない音に到達してしまう。

イーノの「ビフォア&アフター・サイエンス」収録の「カーツス・リジョインダー」のバックでは、ダダイストであったカール・シュビッタースの声の作品がモンタージュされている。
その元の音源などを、大竹さんは紹介してくれた。
あるいは、イーノがデヴィッド・バーンと共同作業した「マイ・ライフ・イン・ザ・ブッシュ・オブ・ゴースツ」収録「レジメント」に流用された中近東の女性ヴォーカル。
「ブッシュ・オブ・ゴースツ」は、イーノがカセットテープに録音した音があらゆる所にコラージュされ、音源が持つ声や響きの力を、異なったポジショニングに配置することで、さらなる不気味なエネルギーにまで昇華させている。

話しはイーノに逸れたが、そのイーノの音楽に影響を受け、それをアートワークにしようと試みたラッセル・ミルズ。
彼は、ドーム(ギルバード&ルイス)のプロジェクトでは、パーカッションとしても参加する仲。
イーノに「ラヴ・レター」を送り続けながら、紆余曲折の上、やっとイーノの仕事を任せられるに至ったラッセル・ミルズの道程。

一方で「絵を描きたい」と東京芸大を受けながらも・落ちた大竹伸朗は、北海道は別海の農家で働いた後、ロンドンに独りで旅立つ。イチかバチかを掛けて。
そして、そこでラッセル・ミルズ、ドームの2人たちと出会う。
「絵を描きたい」と門を叩きながらも「お前には絵を描く資格は無い」と否定された落胆の一方で、一握りの自信・確信を持ち得ていく。
「アートにとって、試験や技術なんてどうでもいいことなのだ」ということを。

ここから時間を経て、ラッセル・ミルズも大竹伸朗も、共にデヴィッド・シルヴィアンのアートワークを担当することになる。

***

そんな大竹さんから、よく刺激を受けるじぶん。
失敗だろうが成功しようが、何を基準点とするかなど不明。しかし、すべてひっくるめて「わたし」であることだけは事実。
ひたすら、その瞬間・その瞬間を刻んでいく。
そう思いつつ、一凡人は、仕事をしながら、一方で、本を読み・音を聴き・ネコと遊び・駄文を書き・写真を撮り・たまーに(なってしまったが)駄絵を描く。
否定も肯定も無い。ただ、そうするしか手は無いから、そうしている。

***

「絵」というものについてなら、コドモの描く絵、そして、ねむの木学園の園児たちの描いた絵、そしてアウトサイダー・アート。
それは、絶対に「絵を描く描き方」を知ってしまったらば、描けない絵。素晴らしい卓越した発想と絵心(えごころ)。かなわない。
とてもではないが、すぐにスケベ心が出るじぶんには描くことが不可能な「絵」。

あるいは、坂本龍一が1981年4月「サウンドストリート」開始以降、教授あてに送られてくるカセットテープを紹介することから、次第にはじまった「デモテープ特集」に寄せられた、数々の実験音楽。
カネとは無縁ゆえに、自由自在に創れた「音」たち。

あるいは「事実は小説よりも奇なり」そのままに、現代ではほぼ不在になってしまった「文学家さん」では描けないリアリティを事実の方が持ってしまった実態。

そんなリアリティを求めて、大竹伸朗は、今日もどこかでゴミや絵の具やあらゆる物体と格闘し続けている。

***

「非アーチスト」が「アーチスト」を凌駕する瞬間。あるいは「アーチスト」とは、どういうものを指すのか?
何も楽器なんか買わなくったって、拾い物から楽器は作れるし、奏でることが出来る。
マイケル・オシェアが使う楽器の原型は、モロッコにあるシンブリングというものに似たモノらしいが、イコールでは無いし、彼しか出来ない手法で、音を奏でる。
じぶんにとって、マイケル・オシェアの「ノー・ジャーニーズ・エンド」が示すものは、それである。
カネとは無縁にはなれないが、かと言って、大量生産や経済活動というデカイ扱いになるほどの・カネの匂いがぷんぷんと異臭を放つ腐った音楽を聴きたいとは思わない。
■Brian Eno & David Byrne 「Jezebel Spirit」■

「マイ・ライフ・イン・ザ・ブッシュ・オブ・ゴースツ」収録の「ジザベル・スピリッツ」。
ここでは、あるラジオ番組を通して、祈祷師が相談してきた相手を誘導するうちに、唸り声を上げ始める様がコラージュとして配置されている。
後に、ピーター・バラカンさん&矢野顕子さんのラジオ番組「スタジオテクノポリス27」のエンディングに使われた、白眉の名作。
コメント (4)
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