こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2011年6月22日 水曜日 夜 健康診断体験記

2011-06-22 21:30:35 | 雑記帳
年に一度の健康診断。
それが、昨日あった。

・・・・と言っても、要するに「健康診断」とは看板のみの所詮は形式。

「健康保険組合のかきいれどき」という解釈が◎。

ウィキペディアで調べると、こうある。

■「健康保険組合とは?」・・・・・・従業員やその家族である被保険者や被扶養者の利益・福利厚生の充実を図ることを目的に設立するものである。
生活習慣病など疾病予防の活動を積極的に行い、従業員等の健康増進とともに医療費や保険料を抑えることができるという、スケール・メリットを生かした活動が期待されてきた。

しかしながら、採算性を度外視して、企業や業界の価値を高めるためのツールとして設立を目論むケースが多く、政治献金や組織票と引き換えに族議員(元厚労省幹部等)らを介した不当な圧力・口利きが横行するなど、政治腐敗の温床ともなっている。

***

かつて、多摩エリアで仕事していた頃、経験したのは、その「健康保険組合」に紐付いている病院リストの中の悪い方の指定病院。
その中から、健康診断する病院を選ばなければならないシステムになっている。
やっぱり、これも癒着みたいなものだ。



過去、ずっと、きったない不衛生な見てくれのうし○病院というところに行くのがならわしになっていたが、あまりにこの病院がひどいので、自分が健康診断の担当に志願して、立川駅前のきれいなクリニックに変更した。
ここは、極めて衛生的で良いところで、医療機関として極めてまっとうなところだった。

うし○病院がひどいところというのは、健康診断が一式終わった後、レントゲン・採血・心電図等々を総合して、最後に「問診」なるものがあるのだが、そこで、40~50代のすかした医者が半笑いで吐いたコトバ。

『こんな健康診断ごときで、病気なんか見つかる訳無いじゃない~。』

帰ってきて、誰かが言ったことで発覚したことは「あなたも言われたの?」ということ。
こういう三文病院が、こういう健康保険組合と闇で手を結んでいるのが一般人に分かってしまう。
しかし、そういう病院が指定されて、印刷されている事実。

***

この健康診断には、いまだに疑問なことが多い。

●「バリウム」なるものは昔もっと量が多かった。
その頃は、相当なカネが製薬会社に流れていたのだろう。
よくある話が、バリウムを一気飲みする途中で「げっぷをしたら、もう一杯。」は真実なのか?
果たしてあれだけの量を飲まないと造影されないのか?
要は、製薬会社とのタイアップで必要量以上飲まされているだけのことではないのか?

●また、この21世紀の2011年に、バリウムを飲んでぐるぐる機械の上で回っている写真を撮影して、それで判断するなど方法論として如何に古いか・・・。
これもまた、内視鏡診断やカプセルでの診断などとの実のコスト差が一般人には開示されない。
内視鏡診断やカプセルでの診断の方が診断は確実だがコストは掛かるだろう。
そう思い込んでいる。
果たしてそうなのか?
バリウムで大病が発見されるようなケースなど聞いたことが無い。
その分、病気になる人間が多くなり、医療費としてカネがサイフから多く引っ張り出され、医療業界が潤うだけのことでは無いのか?

●個人情報保護法が施行された割には、問診のときには、ついたて1つしかない。
よほど段ボールのほうがマシ。
医者はその内側に入って、その中で「何かおかしな箇所ありますか?あなたの個人情報は絶対守りますから。」
「おいおい、お前の声、全部外にだだ漏れしてるよっ。」

そんな程度のゆる~い、この健康診断の情報は、仕事場経由では無い形で、結果は本人のみに知らされると言われているが、それはウソではないのか?
データベースとして、売買されてはいないのか?

そういうウラ資料が保存されている場面をかつて見たことがある経験から、そう思ってしまう。
また、戦後焼却したといいながら、いまだに過去の情報が、ウラの名簿屋を通じて様々な売買をされているように。

***

さてさて、話しはじめた昨日の健康診断。

「まあ、ええやろ。」と朝、一杯の濃い緑茶とドリンク剤を飲んで行った。
寝起きと仕事場で一服タバコを付けた。



受付で「今日は起きて何か口にしましたあ?」と聞かれて、正直に言ったら「バリウムは駄目ですね」とのこと。
何が基準なのかは分からないが「これ位(と親指と人さし指で5cm位の幅)だったらいいんですけどねえ。」
さっぱり「あいまい」そのもの。
結果、ぐるぐる回ることが出来なくなった。

身長が年によって伸びたり縮んだりするのは不可解だが、体重は74kg→62kgと12kg減。
腹囲は91cmから75cmに16cm減った。

ヘッドフォンで聴こえる音の方の手を挙げるのも、メガネをかけての視力検査で「C」のマークの切れ口を答えて視力を決めるのも適当。



採血、心電図は、別段どこで受けようが変わらないが、レントゲンのおやぢも流れ作業で適当。
「は~い、カラダくっつけて、息吸い込んでぇ~、止めて」と滑舌(かつぜつ)悪い中、息吸い込んでる途中で「カシャ」という音と、
「は~い、い~っすよぉ~」。
一体、何が「いい」んだか不明。
少量の被爆。



最後のこれまた適当な医師の問診。
眼をベロリと指で見られて、胸に聴診器当て、資料見て「何かカラダで気になるところありますか~ぁ」。
「いや、先生、放射能を被爆しちゃってね。
どうしたらいいですかねぇ。」

半笑いで「は~い、い~っすよぉ~」。
一体、何が「いい」んだか不明。
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2011年6月21日 火曜日 夜 ラジオにまつわる音楽夜話

2011-06-21 21:35:40 | 音楽帳
小学生の頃(3年生か?4年生?)ミニラジオをおじさんのおふるか何かでもらい、持ち歩くようになってから、無理矢理通わされた塾の一人ぼっちの旅の中、ラジオが自分の友達となった。

イヤホンで聴きながら、梅が丘~下北沢界隈、新宿、市ヶ谷、四谷・・・・
そんな転々とする中、TBSラジオが一番好きになり。

そこから35年近くしても、今夜もTBSラジオを聴いている。

ラジオというのは、耳があれば目をつむっていても聴ける。

よく、幼い頃、洋裁を三ノ輪の自宅で教えていたお袋さんは、その部屋(みんな仕事部屋とその部屋を呼んでいた)夜なべをして服を縫い・ミシンを踏みながら、FMラジオを聴いていた。
うちでは、誰も居ない時間でも、FMラジオが常に流れているのが普通の家のしきたりだった。

ラジオというのは、目をつむっていても聴ける・仕事をしながらでも聴ける。
そして、まるで身近に居るかのような錯覚を覚える。

ラジオにまつわる曲は、音楽にも多く存在し、それらはラジオというものが、テレビでは代用が利かない繊細さ・ナイーヴな感触を持ち合わせていることに因るのだろう。

南佳孝は「レィ~ディオー、ガール、やさしい声で~、レィ~ディオー、ガール、ささやい~てえ。。。」と、ラジオの女性DJをテーマにした『あこがれのラジオ・ガール』を思い出す。



南佳孝さんは、この頃、教授こと坂本龍一も友人だったので一緒にステキなアルバムを創っていた。
故加藤和彦さんも含めて、細野さんが70年代に「はらいそ」を抱いた南洋の世界で、みんなが交錯しあっていた。

故加藤和彦さんの「パパ・ヘミングウェイ」のFM雑誌での録音風景には、アロハに短パンの教授と幸宏が一緒に写っている。

トロピカル、カリプソ、レゲエ、ダブ・・・・様々なものが頭をめぐる。
サントリーのCMで知ったカクテル「ソルティ・ドック」、サマー・ウィスキー・・・・。

話しは戻るが、ラジオをめぐっての曲だが、ラジオ好きの私がラジオの曲を選ぶと、こんな風になる。

●一風堂 1981年のアルバム「レディオ・ファンタジー」・・・・ラジオに繋がる曲が多く入った夢あるアルバムだが、個人的には「YOMOTOLO-WAIYA-RADIO」「RADIO COSMOS」がお勧めである。

●トーマス・ドルビー 1982年「レディオ・サイレンス」・・・・「愛がなくちゃね。」が録音されたエアー・スタジオと優秀なエンジニアのスティーヴ・ナーイ。そのロンドン滞在の中でオファーがあったトーマス・ドルビーと坂本龍一・矢野顕子が初めて出会う。
この「レディオ・サイレンス」の女性ヴォーカルとして参加した矢野顕子が、この時点のニュー・ウェイヴの軌道上で如何に異質で世界で抜きんでた存在であるかがわかる曲。



トーマス・ドルビーは、その出現の仕方が「マッド・プロフェッサー」と呼ばれるように、エレクトロニクスを操るのと同時に、ラジオに接近した存在でもあった。
「哀しく無垢なる子供達へ」~「電波(エア・ウェイヴ)」と続く流れの2曲には、ラジオのチューニングとラジオを通した音が入っている。
共に、私には名曲。

●ブリジット・フォンテーヌ 1969年「ラジオのように」・・・・有名な曲ではあるが、私がこの曲に出会ったのは、1984年?か1985年?の土曜23:00からの「日立サウンド・ブレイク」で深夜の空港から航空機が離着陸をする真っ暗な映像との組合せで聴いたのが初め。
土俗的で乾いた感触の曲にフランス語のささやくヴォーカル。

●ホルガー・シューカイ 1980年「ペルシアン・ラヴ」・・・・言わずもがな。スネークマン・ショーの「死ぬのは嫌だ、怖い。戦争反対。」に収録された、桑原茂一選曲のこの曲を聴いたのが、1982年3月。

と同時に、サントリーのCMでは、ウルトラヴォックス&三宅一生の頭一撃のかっこよさに続く、渋いシリーズ第2弾として、海で小舟をこぐ三宅一生とのコラボレーションで、この「ペルシアン・ラヴ」が起用される。
「あんなかっこいいウィスキーの似合う男になりたい」そう思ったCM。



その後、1982年5月ごろだろうか?「ペルシアン・ラヴ」を収録したホルガー・シューカイのオリジナル・アルバム「ムーヴィーズ」を買って聴いた。

この「ペルシアン・ラヴ」は、偶然、ラジオをチューニングしていて録音したイスラムのコーランが曲の要として使われている。



何も、ホルガー・シューカイの曲というのは、これだけに限らず、彼自身ラジオマニアで、古い色んな世界の放送が入るラジオをチューニングしては、様々な音を素材として録音してストックしておき、それを曲を創る際に、様々駆使して、テープを切ったり貼ったりもしつつ音楽を創っている。

東西冷戦崩壊・昭和終焉の前年の1988年に発表されたデヴィッド・シルヴィアンとの共作「プライト&プレモニション」にも、様々なラジオの音の波形が細やかに変調する様が、ミックスされている。

●ブライアン・イーノ&デヴィッド・バーン 1981年「マイ・ライフ・イン・ザ・ブッシュ・オブ・ゴースツ」・・・・話すと長くなるので、このアルバムを語るのを避けて通って来たのは事実。
本来は、トーキングヘッズの1980年の「リメイン・イン・ライト」より先に発売されるはずだったこのアルバムは、収録された曲にラジオ放送の会話を絡めたが、そこに訴訟問題が絡み、削除し差し替えせざるを得なくなって、やり直しとなった経緯がある。



よって、「リメイン・イン・ライト」の後に発売される結果となってしまったが、「マイ・ライフ・イン・ザ・ブッシュ・オブ・ゴースツ」の曲の骨格は、「リメイン・イン・ライト」のベーシックトラックとして使われている。

1982年6月スタートしたFM東京「スタジオテクノポリス27」(DJ:ピーター・バラカンさん&アッコちゃん)のエンディング・テーマにも使われた「ジザベル・スピリッツ」という曲は、ラジオで霊媒師が人生相談の相手に話しかけあおりながら相手が悶絶していく様の音を使って曲が創られている。

ちなみに、前段で話した訴訟問題で差し替えられた元曲は、ブートレグとして海賊盤で出回り、私も手に入れたが、どちらかと言えば、リメイク・アルバム収録された方が良い出来だと思う。

「マイ・ライフ・イン・ザ・ブッシュ・オブ・ゴースツ」には、ホルガー・シューカイのように様々なところにラジオで録音された音が使われている。
元々、「私はミュージシャンでは無い」と語るブライアン・イーノの出発点は、カセットテープの研究。
色んな外気の音やら、ラジオの音、そういうテープのストックがあって、そこから曲に使われたものも多い。
交通事故で死に掛けることで180度人生観が変わってしまう前の2枚目のソロ「テイキング・タイガー・マウンテン」には、「チャイナ・マイ・チャイナ」という好きなポップなナンバーがあるが、その曲の前奏にラジオのテープを繋ぎ合わせている。

●クラフトワーク 1975年「放射能(レディオ・アクティヴィティ)」・・・・これも同世代には言わずもがな。YMOの祖=クラフトワーク。1980年のYMO写真集「OMIYAGE(おみやげ)」(=YMO AGEに愛を込めて)にて、教授(坂本龍一)が好きなレコードとして、このアルバムを挙げていたのを思い出す。
テクノの大家であるクラフトワークが1975年に出したこの名盤は、「アンテナ」「レディオ・ランド」など好きな曲が収まっている。
しかし、トップの曲名は「ガイガー・カウンター」。
このアルバムを、2011年にこういう形で取り上げることになろうとは。
また、細野さんが「レディオ・アクティヴィティ」を歌うなんて思いもしないこと。
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2011年6月20日 月曜日 DeepBlueDay‐Ⅱ

2011-06-20 22:43:09 | 音楽帳
金曜日の夜、東京電力と会うが「想定内」のラチ開かなさ。
次元の低さ。
口が裂けても、核心には触れない社内通達も徹底。

土曜日、実家にみんな集まり、父の日の集いに参加。
雨の中、一番遅い登場。
酒飲み過ぎ、よたって家に戻る。

日曜日、溜まった疲れと虚無感から、暗くした部屋でひたすら寝た。

夕方16:30やっと起きたが、何もかもが虚しく感じる。

アンディ・パートリッジの「テイク・アウェイ」のダブを聴く。



私がXTCを知ったのは、1980年。
教授の『B‐2UNIT』でアンディ・パートリッジがエレクトリック・ギターを電源を入れずに弾く音を聴くに始まる。

■Not the 6 O'Clock News■


『B‐2UNIT』のアルファ・レコード広告に「坂本龍一が今注目しているXTCのアンディ・パートリッジが参加」みたいなセリフに誘われ、引き続いて、雑誌「ぴあ」のFM番組欄でチェックする中発見した、FM東京の夕方のミニ番組での「XTC特集」。

(確かこの夕方の20~30分番組では、Pモデルの特集も聴いた気がする。)



その後すぐに、当時はまだ小さかったVirginレコードの国内盤として「ピック・ラベル」だったかなあ?(不正確)
1500円のシリーズでXTCの国内未発表ものを集めたレコードを、三ノ輪の王電向かいのレコード屋さんで買って聴いた。

このシリーズは、LP盤サイズだが、真ん中にでっかくアーティストの写真が載っていて、国内未発表ものとデザインが売りだった。

当時は手に入れられなかったが、そのシリーズには、後に一期一会するJAPAN、ジョン・フォックス、リーナ・ラヴィッジ、フライング・リザーツなどがあった。

そのミニアルバムでのXTCは、自分に①へんてこりんな感じ②かっこよさ③中学にして既に自分が常傾いていた静かで穏やかな永遠を感じさせる響きの3つのタイプの曲が収まっていた。

①としての「リビング・スルー・アナザー・キューブ」のライブは、今振り返れば、そのへんてこりんと感じさせたものが、パンクなるものだったのだろう。
そのねじれたような音の奇妙さ。
この曲は何度も聴くうちに①→②へと変化していった。

アンディ・パートリッジとの付き合いは『B‐2UNIT』から、このミニアルバムを経由し、XTCのオリジナルアルバムへと繋がってゆく長い長い流れ。

実は、彼の「テイク・アウェイ」を初めて知ったのは、1981年5月の「坂本龍一のサウンドストリート」。
土屋昌巳さんをゲストに、制作途中の「レディオ・ファンタジー」を紹介する回のトップの曲。

ヘッドフォンでFMを緻密にチューニングする「さーっ」というノイズの中から「…ポンポンポンポン」と立ち現れた『フォーガトン・ランゲージ・オブ・ライト』。

頭にガツンと来た。

1981年のサウンドストリートは、毎回そうだったが…。

まさか、あのような濃厚な1回1回の時間の密度が、後にこれ程貴重な時間だったとは、当時は知るよしもなかった。

***

30年後の2011年6月20日 月曜日

私は、今日も「あくまで自分が正しいと思うこと」を吐いたが、それによって孤立感を強める。

たぶん、私は私が嫌いなコトバ=さらりーまん、としては失格者。
この孤立感は、要は「ヤキが回ってきた」のだろう。

21時、仕事場を去り、ビールを独り飲みつつクールダウンして、一拍置くと少し見えて来る。

ダメな人のダメな部分にいくら説教しても、事態は好転しない。
それは、年上も年下も。
そういうのを感じて、接し方を切り替えるが「大人」なのかもしれないなあ…。

ぼんやりとそんなことが浮かぶ。

そんな中、ニュースでは、風見鶏のようにくるくると回るノイジーな人々が映っている。
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2011年6月18日 土曜日 細野さん 「プリオシーヌ」'89

2011-06-18 03:32:09 | 音楽帳










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2011年6月17日 金曜日 可視化出来ない悪魔

2011-06-17 20:02:38 | 雑記帳


私の2月の電気料金の期日が偶然3月11日。

その3月11日。
深夜。
何とかかんとか。

家に戻りポストを見る。
そこに「重要」と書かれた東京電力の封筒。
中身を開けると、1月電気料金「上納」期日過ぎの催促の赤紙。
その前の日になかった、ということは3月11日に投函されたのだ。

私は、数日後、その紙を持ってコンビニで払い込んだ。
そのカネが原発と東京電力役員&社員に還流されることに、やるせない屈辱を感じた。

当然3月11日が日本にとってどんな状況だったかは、言うまでもない。
みんな運命共同体だった。
その後も、緊急事態状況は変わらなかった。

私は、数年前から電力独占長期維持を続け、赤字になろうがどうしようが200以上のぶら下がり子会社を持ち、原発の事後処理でも隠蔽をしたこの会社をマークして調べていた。

一度、本体の人を呼び説明を求め、説教した。

あれから数年後の3月11日。



そして、それからの3ヶ月の日々。

日々日増しに蓄積する迷い・鬱屈と共に東京電力への支払いをやめた。

先日、3ヶ月分の支払要請の赤紙投函あり。

開けて見ると、たった3行のお詫び文章のみ。
後は「黙って払え」という内容。
それだけ。

役人的生ぬるい東京電力は、
「お問い合わせ先・カスタマーセンターへ

月~金
9:00~17:00」

私は日中は働いていて時間が無く、役人の9時5時に電話し議論は出来ないので夜電話した。

電話で、様々な質問を投げかけた。

この3ヶ月の無様さ。
原発に還流されるカネは払わない主旨。
地球レベルの責任。

問い続ける。



出る者のセリフ=常套句は以下のようなものしかない。

●このようなご意見があったことを記録し、申し伝えます。

●こちらはカスタマーセンターですので、範疇外のことにはお答え兼ねます。

●今すぐに人体に影響の及ぶものではありません。

●収束に向けて鋭意努力している最中です。

●時間外ですので、詳細は解りかねます。

そして、彼らは、核心に迫ることを言うと「黙り戦法」に出る。

多分、彼らも「福島原子力補償相談室(0120‐926‐404)と同じくして東京電力本体の人間ではない。

東京電力というのは実に周到である。
全て外壁をファイアーウォール=協力業者という名の下請丸投げで阻止・処理させて、社員&東京電力本体は何ら傷まないという構図。

そんなことは今更ジローだが。



「黙り戦法」を取りながら、何ら答えの無いこんにゃく問答の中『じゃあ、質問への答えの出せる本体直結の電話番号を教えて下さいよ』というが、これも「申し伝えます」の一点張りのロボット回答のみ。

こうなったらネゴシエート手法を取るしか無い。

7日 火曜日 自分が鍛えてきたネゴシエートを使い、うじは○という者から「明日、担当責任者から電話させます」という言葉をまずは引きずり出す。

8日 水曜日 何時でも良い、と言っていたが、電話は無い。

9日 木曜日 うえは○という者が出る。
かたちんば「約束の連絡が無い。」
うえは○「今、確認が取れないので、明日申し伝えます。」
悪代官そのものの語気・圧力感と態度の悪さ。

10日 金曜日 何時でも良い、と言っていたが、電話は無い。

11日 土曜日 にしも○という者が出る。
かたちんば「約束の連絡が無い。」
にしも○「今、確認が取れないので、明日申し伝えます。」
かたちんば「いい加減にしろ。
これで3回同じセリフを聴いた。
もう待てない。
即断即決を願う。
正式に本体の責任者を、今すぐに。」

しばらくして、出て来たAという者。
かたちんば「あなたは、東京電力本体の正社員か?」
A「…はい。○○部署の責任者です。」
かたちんば「やっと会えたね。
いつまでも逃げ回っていないで、会いに来たらどうですか?
正式な説明を願う。
色々今まで尋ねた事の回答が欲しい。」
A「時間をもらっても良いか?」
かたちんば「いつだって構わない。
ご自由に。」
A「調整した上で連絡する。」

15日 水曜日 午後
Aから電話が来る。
日時を約束する。



そんな下っ端の者に語っても仕方が無い。
そういう方は多いだろう。
ただ、今の私はそう思えない。
また、それは糸の端だが、そんな先っちょで終わるつもりも無い。
これは、あくまで第一歩に過ぎない。

今、議論は、東京電力の莫大な資産何兆円を補償にあてて、それを終えた後、最終的に如何にして解体するかに焦点は行っている。
それは、東京電力のみでは無い。
日本を牛耳ってきた他の独占電力会社もそうだし、他の独占維持するライフライン全てに言えること。
また、数社で寡占状態にある者たちも範疇に入る。
全て闇で政治とつるんでいる者も同罪。

しかし、まずは何より放射能が優先。

うじは○という者は、盛んに「正確な情報が確認を取れ次第、開示・発表している」と言った。
かたちんば「馬鹿を言ってもらっては困る。
目の前で原爆がどっかーんと爆発したら、それを確認だの取っている間に被爆する。
そんな連絡待つ馬鹿は居ない。」
うじは○「原爆と今回の件は一緒ではない。
それとこれは違うと思います。」



果たしてそうか?
この会話1つ取っただけでもウソ。

チェルノブイリ事故では、広島の原爆600発分の放射能に値する。

じゃあ、福島原発事故は?

その1割、つまり原爆60発が既に爆発したのと同じ。
単に、可視化出来る事で判断など出来ないのだ。

間もなくAと会う。
自分自身が納得するまで話す。
そんなことで済む話ではないが。


マル激トーク・オン・デマンドより
(「原発は安いは本当か?  ゲスト:大島堅一)
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2011年6月15日 水曜日 矢野顕子・教授&JAPAN「愛がなくちゃね。」'82.6

2011-06-15 18:10:11 | 音楽帳


1982年が豊穣の海だったと語ったが、このアッコちゃんの6月発売のアルバム「愛がなくちゃね。」も忘れられない。

アッコちゃんのアルバムの中で、トップを争う好きなアルバム。



坂本龍一が正式に矢野顕子と2人での生活をし出した年のアルバム。
2人の構想から、JAPANを全面的に起用しようということになり、デヴィッド・シルヴィアン、ミック・カーン、リチャード・バルビエリ、スティーヴ・ジャンセン、そして、詞では糸井重里さんも関わりながら、最高のアルバムとして出来上がった。



ロンドンでJAPANとの共同生活のようにして生まれたアルバム。
毎日、アルバム制作を進めながら、「はい、今日の宿題」と言ってそれぞれのパートに明日までの練習・宿題を与えながら、愉しいアルバム制作。

「あいつら、譜面が読めないんだよな。」と教授は、サウンドストリートで嘆いていたが。

先日、渋さ知らずオーケストラなる単なるスカで踊っていた若者が居たが、そういう人に、このアルバムを、そしてトップの曲「愛がなくちゃね。」を叩き付けたくなる。

ボクは、この曲を聴いていると、自然とカラダが喜んでわくわくして動いてしまう。
こんな曲はあまりない。



JAPANのメンバーが日本語で「やっぱり、愛がなくちゃね~」と歌うぎこちなさも愛らしく素敵。
本当に凄いメンバーで出来た凄いアルバムだと思う。
1982年のこの時点が、如何に夢に満ちている世界かが音ににじみ出ている。

当時、レコードのみで1800円の破格の値段。
写真集付は2800円として発売された名盤。



YMOファミリーの存在が無かったら、JAPANは解散しなかっただろう。
JAPANの4人は、YMOファミリーに「新しいそれぞれ未来」を見い出したのだ。
JAPANは、この後、この1982年末、土屋昌巳をギターに起用したツアーで解散することとなる。
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2011年6月14日 火曜日 B-52's 「Deep Sleep」'82.3

2011-06-14 18:14:20 | 音楽帳


1982年4月、いろいろあったが。。。結果、「文武両道」という園長直筆の色紙をもらい、最右翼に位置する巣鴨学園に入り、女1人校内に居ない荒涼としたアウシュビッツ的な男子校の高校生活に入っていった。

自分は、ここから更に挫折し始める。
元々病弱だったのに、厳しい体力を要求される幾多の体育と催事と言う名の拷問、更に自ら進んで入った排球部(バレーボール)とボロボロのカラダで日々過ごしていた。
三島由紀夫のように、強靭なる肉体を渇望していたやるせない日々。

一方、1982年には、細野さんと幸宏がYENレーベルを立ち上げ、教授はB-2UNITSというユニットで室内のライヴを行い、ニュー・ウェイヴは豊穣たる音楽の海を広げていた。



4月・5月・6月と様々な新譜が、夏前にして国内発売されエア・チェックに、レコードを買いに・・・音楽面では充実の限り、というより自分の24時間ではカバーできない容量に達していた。

***

B-52'sの3枚目のアルバム「メソポタミア」はプロデューサーがトーキングヘッズのデヴィッド・バーンということで話題となった。
A・B面共に曲数も少なく、ミニ・アルバムの感じもある。
評論家はボロクソ叩いたが、私自身はこのアルバムをこの4~6月の頃、よく聴いた。



一番「これっ!」という曲は『ディープ・スリープ』。
実に渋い。

当時、やはりアンテナの鋭いスネークマン・ショーのプロデューサー=桑原茂一さんも、この曲を自分の仕事に使っていた。



梅雨で湿気も多く、少しづつ温度も夏に向かって高くなっていく、うだる夜の中で、この曲を何度も当時聴いた。
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2011年6月13日 月曜日 夜 ディープ・ブルー・デイ

2011-06-13 20:42:25 | 音楽帳
日曜日、夜。
21時 録画した細野さんのETV特集を再び見た。



22時 体が重いが、何とか入浴する。

つるつるの頭がかゆくてフケが出るので二回洗う。
髪を洗うというより地肌を洗う感触。

無精髭の伸ばす以外のところだけカミソリで剃る。

湯上がりしばらくはラジオを聴いていたが、サザエさん症候群的世界でのむなしい放送のため、
ラジオを切り23:30真っ暗にして横になる。
睡眠薬を飲んだ割にはなかなか眠りに落ちなかった。。。。

夜中、くしゃみが止まらず、冷え込みに布団を被る。

***

月曜日、朝。
7:30のたうちまわりながら起きる。
うつろで心的状態はやはり鬱。

大根・わかめの味噌汁、緑茶。

なぜこんなにも、いつまでも朝が憂鬱なのか。
なぜ「もう駄目だ」という心境になるのか。
朝から元気な人と自分は何が違うのか。
この病は治るアテなどないのだろうか。
この歳からこれは改善出来るのか。

小さいものだけがいとおしい。
濡れた葉っぱに着く雨垂れのつぶ。



ゆったりと流れるスティーリー・ダンの「ディーコン・ブルース」だけが骨身に染み入る。

この数分は、日常雑務の時間とは違う。
時間とは濃淡がある。
早さや長さは一定ではない。

結果、なぜ?
私は必死に駅に歩き、電車を待つ。

いつもの車両のいつもの奥の角っこの壁にもたれかかる。
マスクをする。
いつも通りに仕事場に向かうことの出来る律儀な人たちとへろへろで引きづられて行く自分の違い。

このままどこかそのまま知らないところへ向かって行ったらどうだろうか?
どこへということも決めずに消息不明になりたい。
幾度もこころみながら実現しなかっただけの違いだけで、行方不明者・自殺者との違いは、
その橋を渡ったか否か以上の違いは無い。

勇気が無いだけのことだ。

どこかおもむくところにアヴァロンやはらいそがあるのか無いのか、それはやってみなければわからない。



***

細野さんが、70年代に夢見た南洋のトロピカルは、実際にトロピカルとして実在し、
それに魅了されてトロピカル三部作「トロピカル・ダンディー」「泰安洋行」「はらいそ」が産み落とされた。

その産み落とされた音楽に、全く経緯を知らなかった中学生の自分が魅了され、南洋の音楽を聴き、
南洋へのふくらむ想いと憧れの中、揺られて夢見つつ生きる糧としてきた。


【「土曜ソリトンSIDE-B」沖縄特集 1995年7月22日放送 緒川たまきちゃんの天使そのものの笑顔】

やっと自分でお金が稼げるようになって行った、ハワイ、と言っても日本人が来ない人1人居ないエリアで過ごした1週間。
そして、誰も来ない小島で何もせず、静かに水辺で素足で海に浸り、貝や魚が動くのを目で楽しみ、時が過ぎ行くままに数日過ごした沖縄。

自分が憧れてきたトロピカルが、本当に実存することを実感し、浸った。
都市を離れて、こんなところで、もう暮らすかなあ。。。。
飛行機が飛び立ち、トロピカルな楽園に名残惜しい後ろ髪を引かれながら、何度か胸をよぎった想い。

こういう想いのはざまで、今日も、自分は東京で生きている。
想いを断ち切ることの出来ぬまま。



LIFE IN TOKYO。。。。
CALLING FROM TOKYO。。。。

remenber the name
i saw you first・・・・



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毎朝、パソコンのメールを開けるのが憂鬱である。
どんな仕打ち、どんな激文が、どんな差し込みが、どんな脅迫文が入っているかわからない。
そういう本人とは関係のないところで、いつの間にか、先方は当方に送ったつもりで居る。

私はパソコンを見るまでのあいだ、その宙空を飛ぶ見えない文書が矢のように飛ぶのを知る由も無い。

毎朝、パソコンのメールを開けると数十というメールがダダダッと流入してくる。
メールという道具は、もう道具として古いと思う。
打った分だけ、本人は送った・意志を伝えた気で居る。その証拠だと思っている。
しかし、受け取り側は、その1通は数十分の1にしか捉えていない。

「至急」などと平気で書いてある。
至急だったら電話なりで、本人に口頭で伝えるべきである。
「いや、メール見てないの?」
こういうアホに出会う。

人間は聖徳太子では無い。
千手観音でも無い。
そういう超越した者ではない。
メールなんていう道具が出来たお陰で便利どころか、逆に人間はややこしいことになってしまった。

送り手と受け手に温度差激しく、誤解を招きやすいメールという「道具」。
その道具の使い方も、使う人間によっては、ただ毒を拡散させるだけのものとなってしまっている。

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NHK教育テレビで、科学者が独自に調べた放射能測定。
また、信じられる科学者・専門家の意見を総合すると、実はあの福島原発の中にある物質全部が外に出て拡散しているのかもしれない。

細野さんもガイガーカウンターを買い、土曜日の野外ライブでも東京・福島の放射線量を語っていた。
よく毎年、日経がやっている上半期のヒット商品番付に「ガイガーカウンター」が上位に来るという、冗談でも何でも無い事が起きるかもしれない。
このようなものが売れる事態は、当然、正気の沙汰ではない。
そこまで既に来ている。



細野さん「東京の今日の値は、そんなに大きくないね。ただ、福島は東京の約10倍の値。」
そして、2曲目に細野さんのアコースティック・ユニットは実にダークな重い響きで、クラフトワークの「レディオ・アクティヴィティ」をカバーした。

さまざまな値を調べて、自己防衛・・・・
とは思ったが、そんな次元では無いように最近思う。

プルトニウム、ストロンチウム、キュリウム、アメリシウム・・・・あらゆる危険物質が丸ごと原発内から外に出たとすれば、そんな中で、果たしてボクらに自己防衛の手段はあるのだろうか?

もう「逃げ場は無い」のではないのか?
そんなことがよぎっていること・思っていて言えていなかったことに気づく。

かつて、三島由紀夫は(あくまで戦後の平和ボケに対しての言葉だったが)「緩慢な死」と語ったことがあったが、
まるで、そんな「緩慢な死」に向かって歩いているような気がする。

即死には至らないが、「緩慢な死」が既に先に待っている。

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ブライアン・イーノは、1983年にNASAの月面着陸までのドキュメント映画「For All Mankind」のサウンドトラック「アポロ」という作品をリリースした。



毎年、夏が近づくと、宇宙と夜空に思いをはせるときに、必ずこのアルバムを聴く。
しかし、そんな気分では、今は、無い。

アルバムのB面に「ディープ・ブルー・デイ」という曲がある。
曲自身は、宇宙への旅のアンニュイなドリーミーなものだ。

しかし、今の自分には、曲のタイトルから、深い海のただ中に居る気分を想像してしまう。
「Matta」の方がぴったり合う。

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2011年6月13日 月曜日 戻らないあの夏

2011-06-13 08:10:12 | 写真日和
6月1日 水曜日 仕事で東京ビッグ・サイトへ行く。
仕事の参考に、と思い「建築再生展」へ。
バスに乗って。

その車窓で、有明への道を眺めながら、去年のことを思い出していた。



















しかし、よくもまあ、あんな猛暑の中、半日かかりの野外コンサート「ワールド・ハピネス2010」に行ける元気があったものだと思う。
それと共に、あんな幸福感を持ってPUPAとYMOが見られたことが、まるではるかかなたのことのように思えてしまう。

また、「スコラ 音楽の学校」で、YMO3人に「再会」した年でもあった。



2010年というのは、今振り返れば、なんという満たされた年だったのだろう。

しかし、窓の外の流れる風景を見ているうちに、何か切ない郷愁感で自分の中が満たされてしまった。
全ては、3月11日に狂ってしまったんだ。
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2011年6月12日 日曜日 Special AKA 「Racist Friend」・Pupa「Anywhere」

2011-06-12 01:09:11 | 音楽帳


70年代末にパンクが発生した共に、要は白人音楽側からの黒人音楽の取り込みと葛藤が姿を現した。
そんな中で、スペシャルズがスカ・ビートで世界を席巻した。
私が関心を抱いたのはその頃より遅れてのころ。

1984年に発売されたスペシャルAKA名義のアルバム。
初めて聴いたのは、やはりピーター・バラカンさんの「スタジオテクノポリス27」。


テリー・ホールは、スペシャルズ→ファン・ボーイ・スリー→スペシャルAKA→カラー・フィールドと、とにかく盛んに良い「音楽」を「産み出し」ていった。

今日、紹介するのは、1984年の「イン・ザ・スタジオ」より「Racist Friend」。

いくら友達でも、思想的に異なる人とは別れた方がいい。。。
と歌詞に綴られるが、それより、フリューゲル・ホーンの響きの心地良さの方に耳が行ってしまう曲。



まさに、思想的に異なる人とは別れたいね。

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「解毒剤」としてピューパの知世ちゃん作詞の名曲「Anywhere」を聴く。


(2008年11月30日)

そろそろ「音楽」と「音楽以外」に分けた方が良いかもしれない。
AKB48と「音楽」を並列にされたら溜まったものじゃない。

今日のライブで、酒に勢いをまかせて叫ぶ馬鹿若造に、幸宏が「知世ちゃんを、AKB48みたに叫ばれても困る。」と言い、場内は笑っていたが、私は笑わなかった。



冗談もほどほどにしろ。

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PS:音楽を「刹那主義」で捉えない、音楽が好きな人は、普通ルーツに向かって辿って聴いていくもの。
そういう気が無いなら、音楽なんて聴くのやめな。
コメント (4)
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