某大でのAO入試の提出論文。私にとって初めてのAO入試指導だった。今は昔のことなんだが、今回、古いUSBメモリが見つかり、発掘した。大学のアドミッションポリシーや私が作成した大学の資料を研究したり、リベラルアーツを講義したりしての作成だった。決して美文ではないが、生徒の限界の論文だった。志望理由と対になっているんだが、志望理由は発見できず。この文章の思い出は、提出前日に生徒が高校の国語の先生に見せて完全に否定された論文だったことである。ここはいらない、ここもいらないと削除されまくったらしい。生徒の保護者が前日に慌てて電話してきたが、「その先生は大学研究などをしていましたか」と聞いたところ、していないという。「高校の先生の言うことは無視して提出してください」と答えてしまった。今、考えると怖いねえ。けど、無事に合格した。これ以降のAO指導のパターンを作ってくれた思い出の論文である。
【課題文省略】解答例から推測してくだされ。
【課題小論文解答例】
立花隆氏は「知的亡国論」において、半世紀近くに渡って文科系の知識と理科系の知識に乖離が問題となっていることを指摘し、さらに日本では、受験生確保のために科目数を減らすこととスペシャリストを重視することのせいで、その問題が加速しているとし、社会の現場ではゼネラリストが大切であり、リベラルアーツの必要性を説いている。
私も基本的にリベラルアーツが大事であるという彼の論に反対ではない。しかし、立花氏の意見は「実利から離れて真理のために真理を追求する自由人のリベラルアーツの立場」(P180)が中心ではなく、実利的な意味でのリベラルアーツを主張できるように受け取れた。例えば「ハイレベルのゼネラリストを育てるのに一番いいのは、ハイレベルのリベラルアーツ教育です」(P183)という文があるが、ここでのハイレベルのゼネラリストとは「執行部門の上層部のエグゼクティブたち」(P182)なのである。
私はリベラルアーツを、そのように生きていく上での、部分的なものとしたくない。リベラルアーツとは直訳すれば「自由学芸」であり、自由学芸とは生きやすい生の全体を歩むための学問と技術(arts)なのだ。人はエグゼクティブでない場面でも生きている。母として、妻として、市民としてである。そういう総合的な人生に必要なものをリベラルアーツと言うべきである。
私にとっての理想の高等教育は、人生で総合的に役立つものであり、主に三つの中心を考えている。まず、コミュニケーションの力である。これは人が社会的に生きるために必要なものである。内容としては日常レベルの共通の基盤となる常識や大学人としての常識である名著(グレートブックス)を理解すること、外国語の能力を上げること、ディスカッションやディベートなどを行うことがあげられる。
次に自己を作り上げることである。アイデンティティの確立に必要なものを学び、修得することである。哲学、倫理や宗教の理解、そして自国を含めた多様な文化の理解などである。
最後に社会での判断力である。これはメディアリテラシー(メディア受容力、メディア使用力、メディア表現力)やサイエンスリテラシーである。サイエンスリテラシーがなくては、健康食品から発電所のあり方まで判断ができないことになるだろう。
なお、これは便宜上、三つにわけたが、実際に三つが独立したものではない。メディアリテラシーとコミュニケーションは密接な関係を持っているし、グレートブックスはアイデンティティの確立にも必要なものである。また、これらの三つの全てができることは難しいだろうが、その素地が作れることが肝要である。
したがって、これらを総合的に学ぶということが大事であるが、それはどのように達成されるべきか。まず、高校生の判断だけでは自分が本当に学びたいこと、あるいは、学ぶべきことが分からないので、いきなり、専門的な分野をやらないことである。そして、学生が望むならば、専門を一つやるだけでなく、複数やることで総合的な視線を残すことである。
また、教室は講師が一人一人を把握できる小人数が望ましいだろう。そして、疑問点や発展するための方法をいつでも聞きにいけるような自由な学風こそがリベラルアーツの修得のために必要である。
最後に、リベラルアーツを実現するための受験制度としては、基本的な学力の有無は当然確認しなくてはいけない。グレートブックスの読破や外国語の修得には必要だからである。しかし、一番、大事なのは学生の個性を見極められる入試制度が望ましい。それは面接、小論文、プレゼンテーションなどによって、ある程度の確認ができるであろう。
ここまで書いてきて、私は気付いたことがある。理想の高等教育に近い場所がすでにあったのだ。
専攻は2年生からで、副専攻も可能な大学である。私は今回の課題を通して本当に××女子大学を志望して良かったと思っている。