旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

「イエス様はずっとおられた」キリシタン洞窟から久賀島へ

2024-12-01 10:12:30 | 国内
「イエス様はずっとおられたんだと思いました。これまで何十回も来ていたのに気づきませんでした。」ガイドしてくださっている信徒のHさんが感慨深げに言った。

↑茨の冠をつけたキリストがうつむいている↑

11月20日、土井の浦港を出た船は十分ほどでこの岩場の前に着く。

明治初期に迫害を逃れたキリスト教徒たち十二人が、海からしか近づけない岩場に逃げ込み暮らしていいた。
が、煮炊きの煙で見つかり捕まった。

十字架は昭和42年にたてられた。
※2017年に訪れた時のブログにリンクします
接岸できる時は希。
一度だけ上陸できたことがある。
奥行き50m以上もある広い空間が突き抜けている。
十字架がたてられたのと逆の開口部に冒頭のお顔が見えたのだった。

目に入ることと、
それを認識することは別。


久賀島の外側は岩場ばかり↑この向こうに穏やかな入り江と耕作地がひろがっていることなど想像できない。
※U字型をした久賀島の地図を、2017年はじめて訪れた時のブログに載せています

浜脇教会が見えてきた。

近くに古い神社も見える↑五島列島というと教会ばかり注目されるが、寺社にも知るべき歴史がある。いつかちゃんと向き合う時間をとりたいと思っているが、個人的に訪れて・知識のある研究者の方に同行してもらわなければ無理だろう。ツアー造成をしていくなかでは実現できそうもない。


田ノ浦港に上陸。手配していた久賀島のタクシーで教会へ。
※2020年の同じルートのブログにリンクします

その後U字型の内側にある、昔の代官所へ。

今は観光拠点センターになっていて昼食を予約した。



タクシー二台で入り江向こうの「牢屋の窄」に到着↓

対岸に↓さっきまで昼食を食べていた交流センターが見える↓


「肝だめしの場所になっていました。年に一度殉教祭があってけれど、大人は詳しいことを話してくれなかったんです」
明治初年に起きた●牢屋の窄の悲劇については、
久賀島で子供時代をすごしたHさんも詳しく知らされていなかった。

何度も訪れているが、残酷な顛末について知るほどに考えてしまう。

二百人が八か月にわたって十二畳ほどの牢(として使われた家)に詰め込まれた。
力尽きて地面に落ちると仲間に踏まれて命尽き腐敗していった。

亡くなった43人の名前が刻まれた丸石↑中央の十字架の下には生き延びた人々の名前が書かれている。
現在の久賀島の信徒はすべて、牢屋の窄の生き残りの子孫なのだそうだ。

今回はじめて知ったことは

実際の牢屋は↑この場所にあったということ。

↑現在教会がある場所ではなかった。
この建物が一見教会らしくないのは、もと発電所の建物を改築転用したから。

教会の後ろにある「監視所跡」

最後に旧五輪教会へ向かう。

林の中を降りてゆく。

廃屋の跡がそこここにある。

五輪地区の入り江が見えてきた。



↑今は立ち入りが制限されている道を上ると江戸時代隠れ切支丹だった時代からの墓地がある。

浜脇教会として明治10年もしくは明治14年に建築された建物。
船大工だった平山亀吉=亀太郎が長崎の大浦天主堂をモデルにした。
昭和6年に今の浜脇教会が建設されることになり、解体されて五輪地区に運ばれた。
昭和60年(1985年)に老朽化で壊して同じ場所に新たに教会を建てる話が出たが幸い保存され、平成11年(1999年)国の重要文化財に指定された。現在はユネスコ世界文化遺産のひとつになっている。

松の木を使ったので

松ヤニが噴出している部分がある。

瓦は何度も新しくされたが↑木造部分に時代が見える。

福江島に向かう。







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