旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

シディ・ブ・サイド

2019-03-10 15:40:29 | チュニジア
チュニスから二十キロほどのところにある、丘の上の「青い街」


「シディSIDI」とは日本語にすれば「聖なる」という意味。
聖アブー・サイード・アル・ベジAbou Saïd Al Béjiがこの町に住み、イスラムのスーフィズム(神秘主義)教団を形成し、1231年に没したことに由来する。

観光客でごったがえすメインストリート、階段の上の閉ざされた扉の向こうに彼の廟がある↓

↓イスラム教徒であれば、横の階段を上って中へも入れる↓


ムスリムでないわれわれは、かつて巡礼者たちが集っただろう休憩所(=現在はカフェ・デ・ナッツ)でミント・ティーでもいただこう。

十メートルほどの階段を登って店内に入ると、独特の色彩空間がある。日本の古い茶屋を思い起こさせるつくり?
※360度カメラでの映像をFacebookページに載せましたのでごらんください
↓この階段の上がこのカフェ


階段の上からの眺め



街の通りにたくさん売っている「鳥籠」がこの町のシンボルなのだそうだ↓


★イスラムの街は路地もおもしろいが家の内部に入らないと本当の価値は見えてこない。
オスマントルコ時代からの名家が暮らした「アナビ家」の邸宅に入ってみよう。
↓入り口を入ってすぐの中庭がこれ↓

法律官としてこの地を任されたということは…地元のお代官様の家みたいなものかしらん↓
↓仕事中の蝋人形

↓女性の部屋

↓嫁入り前に全身の支度をしている様子だそうな

↓この時代のチュニジアはオスマントルコの支配下にある。
イスタンブールあたりで見かけたオスマン時代のタイル装飾と、スペインのアンダルシアあたりの様式が混ざり合っている。

↓邸内にモスクがある↓
礼拝に使われていた絨毯

この場所には外からも入れるように階段がつけられていた↓

下の階へ降りると、外から入れる青い扉があった↓

礼拝の手順は↓けっこう新しげな紙

それもそのはず、ここは1971年まで実際に家族が住んでいたのだ。

↓小さな屋上からの眺め

中庭で休憩してから出口で料金表を見ると日本語も書いてあった。

それにしても、ドルで払ってもユーロで払ってもUK£出払っても同じって、おおざっぱ。
つまり、現地通貨チュニジアディナールで払うのがいちばん良いのです。

****街の通りをつきあたりまでいくと素晴らしい眺めが待っていた

↓大統領官邸も見える


古代カルタゴの人々もこの眺めを楽しんだに違いない(^'^)

↓外交官ナンバーの車なんだそうな。
「01」はフランス













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カルタゴ遺跡~アントニヌス・ピウスの浴場

2019-03-10 13:39:00 | チュニジア


カルタゴ遺跡というものの、いちばん目立つのは滅亡の百年後、廃墟を埋めた上に築かれたローマの遺跡である↓

★カルタゴの遺跡は↓もう一段深く掘ったところに見られる↓

↑これは三つの墓

↓ローマ時代の遺跡の中でもアントニヌス・ピウス時代の浴場とされる場所はひと目で印象にのこる↓
全体のフロアプランを見て…↓中心にある円形が、

↓目の前にあるのだとすぐに気付く

↓そして、海に向かってひらけた巨大な浴場の跡へ足を踏み入れる

↓当時は太い柱が立ち並び

↓今は落ちてしまった高い天井をささえていたのを想像してみよう


最も印象的だったのは海に向かって開けたプール↓

↑写真の右側の、今は芝生になっている部分がそれ↓

このプールはきっと、海につながっているように見えていたのではないかしらん。
現代のアマングループやジェフリー・バワがはじめたとされる「インフィニティ・プール」の先例は、紀元後二世紀にすでにあったのかもしれない。
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カルタゴ遺跡の軍港

2019-03-10 13:00:00 | チュニジア
ここは釣堀ではない↓

紀元前二世紀、古代カルタゴの港だった入り江。

第三次ポエニ戦争の最終局面、古代カルタゴはBC149年から146年にかけて三年にわたる籠城戦を戦った。
外からの救援物資はこの港へ入った。塩野七生さんの「ローマ人の物語」第二巻にある港の地図↓

グーグルマップを拡大してみると、上の古代の地形と同じものが見えてきて驚いた↓

二千百年以上ものこされていたのかしらん…これはぜひ見てみたい…だが、実際に来てみるとぱっと見釣堀みたいだったというわけだ。
↓地図上の左、円形の軍港のほうはもう少し古代の雰囲気を感じられる↓

中央にあった軍船のドックだったとされる場所


開けてもらった小さな部屋に模型があった↓

↓ああ、なるほどこんな風にカルタゴの軍船が待機していたのか



塩野さんの地図にあるように、ローマ側は救援物資を入れさせないために堤を築いた。

カルタゴがそうはさせじと軍港からそのまま出られるように切り開いた港の出口が今もみられる↓


カルタゴの陥落から百年後、カエサルはカルタゴを都市として復活させることを決定した。
かつての軍港は円形のフォロとして復活した。
↓その復元模型

↓中央に実際に発掘された場所が見られる


ガイドさんによると、ここはイギリスの発掘チームが復元したのだそうだ。
現代イギリスの知識層はローマへの憧れが強く、伝説を目に見られるように復元するということを発掘の最終過程でよくやった。この港も、もしかしたら18世紀あたりには地形からしてちがっていたかもしれない。

前出の模型二つは、ロンドンからの寄付でつくられたというプレートがはまっていた↓











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カルタゴに幼児犠牲はあったか?

2019-03-10 12:00:00 | チュニジア
カルタゴ遺跡の郊外に「トフェ」と呼ばれる墓石が大量に出土したエリアがある↓

ラテン語でポエニ人の聖域と書かれた看板↓

カルタゴの遺跡は市域外に幼児ばかりを埋葬した場所が見つかることが多い。
↓日本の道祖神のような雰囲気の墓石

※2011年にシチリアのモツィアという小さな島に残るカルタゴ遺跡を訪れた記事をこちらからお読みいただけます

幼児は神にささげられた生贄であると解説された本も多いが本当にそうだろうか?
「幼児死亡率の高かった時代、早世した子供たちをひとつの墓地に埋葬して神の加護を祈ったという方が正しいと考えています」というモツィア島のガイドさん解説の方がしっくりきた。

↑「タニト」と呼ばれる、バール・ハモン神(ギリシャのゼウスやローマのジュピターにあたる)のパートナー女神を現しているのだと、チュニジアのガイドさん。慈母神というのはどこの世界でも必要とされていた。
↓発掘されたエリアの近くの「祭壇」の一部とされる場所↓通説ではここで位の高い家の幼児を残酷に生贄にしたというのだが、ほんとうにそうだろうか?

カルタゴを滅ぼしたローマが悪意をもって彼らの似た習慣を記録したのかもしれない。
19世紀のヨーロッパ人たちのカルタゴ感も、基本的にローマから引き継がれている。

実際に発掘した考古学者たちは、「伝説的に語られるような残酷な殺され方をしたと思われる骨はみつかっていない」としている。カルタゴ=フェニキア人の故郷とされるレバノンのシドンの発掘では発掘された75%が動物の骨で、幼児の骨はアフリカ系だったと、チュニジアのガイドさん談。

この遺跡はフランス人が発掘し、現在のように見学できる形に整備された。

カルタゴに幼児犠牲はあったのか?
日本の「人柱」の話をはじめ、生贄の話は世界中にある。








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羽田からパリ経由チュニス到着、すぐにカルタゴ遺跡へ

2019-03-09 11:11:11 | チュニジア
空港の建物を出ると青空に赤いチュニジア国旗がひるがえっていた

「トルコの国旗と間違われるけど、こちらの方がずっと先なんだ」と、お会いして早々ガイドのショクリさんが言った。

からっとした穏やかな風がふいている。
巨大なコリント式の柱頭は↓ホンモノかしらん?

**
羽田を24時少し前に出発し夜明け前に冷たい雨の降るパリに到着。06:45のチュニス行が飛び立つ頃、ようやく空に朝の気配↓

うとうとして目覚めると、すっかり昼になった空の下、海岸線が見えた↓

飛行ルートから考えると、フランス領コルシカ島かイタリア領サルデーニャ島だろう。
朝食はこんな↓

↓マンゴースムージーにシリアルを入れていただきます

三時間ほどで降下体制にはいる。チュニスの北側に位置する岬が見える↓

↓着陸

遠くに印象的な山が見えた↓

何度も地図を見てシュミレーションしていたが、こういう山のたたずまいは実際に訪れてはじめて感じられること
※あとからガイドのシュクリさんがカルタゴ時代から信仰の山だったと教えてくれた

空港から市内とは逆方向に位置するカルタゴの遺跡を目指す。
↓正面に教会が見えてきた↓

「セント・ルイス教会だよ」とガイドさん
あ、フランス王ルイ九世のことか。
十字軍遠征の時チュニスで病没したのだった。


※こんな大きな教会が必要なほど今のチュニジアにキリスト教徒はいない。フランス領だった時代(1881-1956)だからこそ建設された。「今は教会としては使っていませんよ。キリスト教徒は、千人にひとりぐらいかな」とシュクリさん

すぐに教会の足元に到着。


そこが、カルタゴ発祥の地にして終焉の地、
★「ビュルサの丘」だった。
「ビュルサ」とは牛の皮を意味する。共同統治者だった兄に夫を殺されたフェニキアの王女エリッサは新天地を探して航海をし、現在のチュニジアにたどりついた。この地の支配者はエリッサに「一枚の牛の皮が覆えるだけの土地なら与えてもよい」と言った。
そこでエリッサは牛の皮を細く長く切り、それで城塞が建設できるだけの土地を囲った。カルタゴとはフェニキア語のカルト(街)ハダシュ(新しい)という言葉からきている。
紀元前814年のこととされている。

カルタゴの滅亡もまたこの丘だった。
紀元前146年。第三次ポエニ戦争の最終局面で、追い詰められた最後のカルタゴの人がこの丘の要塞に篭り、火を放って自害したと伝えられている。
***
カルタゴ遺跡に入る。
広大な湾に面したすばらしい立地だ↓

↓湾を挟んで見えている山は空港から見えていた山


「バール・ハモンの神殿があの山にあったんだ」とシュクリさん。
古代のカルタゴ人も我々も、山を見ておなじように感じていたんだ。

第三次ポエニ戦争でローマに破壊されつくしたこの土地にかつてのカルタゴ都市の面影を求めるのはとても難しい。
紀元前一世紀にカエサルの決定で新たなローマ都市が建設されたので、そのローマ遺跡の方がはるかに大きい。
とは言っても、我々ここを訪れる観光客は「カルタゴの栄光」なるものを少しでも感じたいと思う。
↓下の写真で、四角い構造物の間に小さく埋もれている三角屋根がわかるだろうか

↑これはカルタゴの墓地のひとつなのだという。
↓こちらはカルタゴ時代の居住エリア↓

↓手前の細い柱で囲われた区画がカルタゴ時代の住居跡なのだそうだ。
「どうしてローマ時代のものでないとわかるのですか?」と質問。
使われている石がローマのものは石灰岩で、カルタゴのものは砂岩なのだそうだ。それもカップ・ボン(ボン岬)の先端にある石切り場から運ばれたモノが使われているので判別できると教えてくれた。

ビュルサの丘にあった要塞などの構造物は、ローマ人によってことごとく壊され、それを埋めて土地を平らにし、ローマの街を上に築いたとされる。今はそのローマの街も遺跡となって地中海の陽光をあびている。


次はカルタゴの港へ行こう




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