旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

「キフツ・ゲート・コート」と「ヒドコット・マナー・ガーデン」

2020-04-13 11:10:21 | イギリス
2011年5月イングランド南部をめぐる《手造の旅》


★キフツ・ゲート・コートの庭には独特の美意識が躍動している

かつてテニスコートだった場所を2000年に池に改造。

なにやらおもしろい植物が顏をだしている?

先端から水がしたたる、「噴水」と呼ばれる作品。
ニュージーランドのサイモン・アリソンというアーティストによる。

こういった斬新な変革は、個人所有の庭だからこそ可能。
ナショナル・トラストに遺贈された、美しくはあるが変化を封じられてしまった庭園ではできない。

キフツ・ゲート・コートも基本的には伝統的な英国の庭


1919年にミュアー夫妻がここを手に入れて以来、現在に至るまで女性三代が慈しんできた邸宅と庭である。

最初にマナーハウスに住んだヘザー・ミュアー夫人は、すぐとなりに住むアメリカ人ローレンス・ジョンストンと友人になり、彼の庭「ヒドコット・マナー・ガーデン」に学んできた。※ローレンスの庭は後述
夫人はここで娘の不幸な死にもみまわれたが、幸いもう一人の娘が意志を継いだ。

現在のオーナーであるアンさんはその娘にあたる。

広い敷地の端はちょっとした崖になっていて大きな松が植えられている




**
すぐの場所に★「ヒドコット・マナー・ガーデン」がある

前出のアメリカ人ローレンス・ジョンストンが住んだ邸宅と庭。

1871年パリ生まれ(パリコミューンの起きた年!)だが、ケンブリッジ大に学び1900年には英国籍を取得している。
第二次ボーア戦争に英国軍人として参加。
帰国後、傷心の息子の為に1907年に母が購入した広大な庭園とマナーハウス。

お土産屋の一角にローレンスの等身大の像がひっそりと置かれている↓

犬好きだったようで、いっしょに映っている写真がけっこうある
※ナショナルトラストの彼についての最新研究結果が載せられた頁

十年ほどして、おとなりさんとして前出の「キフツ・ゲート・コート」がつくられ、そこの女主人ミュアー夫人とも交流していた。

↓当時はやりの「ロング・ウォーク」


広い敷地を小さなコーナーに区切ってそれぞれ個性のある庭にしている。
造園家として他にもたくさんの庭を手掛け、晩年は南仏の庭園ですごし、没した。

生涯結婚せず、ここは最終的にナショナル・トラストが管理することになった

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モティスフォント旧修道院の庭

2020-04-11 05:29:33 | イギリス
2011年5月イングランド南部をめぐる《手造の旅》
モティスフォントは13世紀はじめに創設された修道院がもとになっている

↑もともと教会だった建物の真ん中・身廊部分には16世紀にマナーハウスがつくられている。
どうりで両サイドの雰囲気が古くてちぐはぐ。

中世には巡礼たちがやってきて、収蔵していた「洗礼者ヨハネの指」を拝んでいたそうな。

14世紀のペストで衰退し、16世紀ヘンリー八世の英国国教会への趣旨替えで修道院は閉鎖。
このタイミングで教会が壊されてマナーハウスをつくってしまったのか。
19世紀から20世紀前半には富豪が狩りの館につかっている。
第二次大戦時には野戦病院となり、戦後の所有者が1970年代まで住んでいた。
彼が生前に寄付して、ナショナル・トラストが管理している↓現在



イギリス屈指の庭園として知られている

特にバラが有名なのだが

五月前半、少し早かったかもしれない

楽しめるのはばらだけではない

古い建物といかにも自然に見えるようによく手が入れられた庭園をあるく











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中世のボディアム城

2020-04-10 05:07:34 | イギリス
2011年5月イングランド南部をめぐる《手造の旅》
シシングハーストから三十分ほどの場所にある↓

駐車場から小道を歩いていくと水に囲まれたいかにもの古城が姿を現した。
資料によると1385年に建設。フランスとの百年戦争の真っ只中。

大砲が戦争に使われはじめる前だからこんなつくりでも守れたのかしらん?
いや、実際の戦争で包囲されたら、いかに中世とはいえひとたまりもないだろう。

中世のままの姿であるはずはない。
1828年に、荒れはてていた城を保全するために当時の有力政治家だったジャック・フラーが購入し、手に入れている。

簡単に近寄れる道ができていて
上階に通じる階段も修復されている↓

上からの眺めは古城の風情をいっぱいにかんじさせてくれる

石造りの城でも梁や床は必ず木製だった。

何百年かのうちに木製の部分は焼けたり朽ちてしまったりして

石の部分・いわば骨組みだけが残されているとおもってよい

部屋の壁にはタピスリーが張られていただろうし、暖炉にも炎があったはずだ
今はこんなに殺風景な内部でも、かつての栄華を想像してみよう。



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シシングハースト(城)の塔と庭

2020-04-09 05:14:08 | イギリス
2011年5月イングランド南部をめぐる《手造の旅》+2005年3月
五月の南イングランドらしい青空にルーピン(のぼり藤)と古城の残りにみえる塔。

シシングハースト城は、実は13世紀ごろから貴族のマナーハウスがあった。
王が滞在したこともあったが、所有者は移り、第一次大戦には戦争捕虜の収容所になったりもした。

↑壮大なマナーハウスは姿を消し、ひとつの塔と平屋の小さな家がのこっているだけ。

塔をのぼる↓

↓まわりはよく手入れされた緑の海

ここの見所はなんといっても庭

イギリス庭園は自然に見えるが手がはいっている。

このイギリス屈指の人気庭園はしかし、戦争捕虜の収容所に使われたあと荒れ果てていた。
「農場」として売りに出されてしまったほどに。

★1930年になってここを所有した外交官と詩人の夫妻

ヴィタ(ヴィクトリアの愛称)サックヴィルーウェストは16世紀ケント伯爵の末裔になる名門の生まれ。
彼女は若い頃から詩や小説の才能に恵まれ、十代でイタリア貴族から求婚された美貌でもあった。

しかし、本人は女性が好き。
21歳の時に結婚してすぐに子供まで授かったのだけれど、後年「結婚したのは人生最大の失敗だった」と書き残している。
十歳年長の小説家ヴァージニア・ウルフにあこがれ、
子供が大きくなってからも女性の恋人とフランスへ逃避行して、
二人の夫たちがチャーター機で連れ戻すようなことまであった。


夫のハロルド・ニコルソンと1930年にシシングハーストに移り住んだことは、彼女にとって大きな転機になったのではないかしらん。

そんなに仲はよくなくても、芸術的センスに恵まれた二人が少しずつつくりあげていった庭は、イギリス屈指の名園となったのだから。

大きなシェパードと二人の子供と住んだシシングハーストは、同性愛の彼女にも「幸福」を与えてくれたのではないかしらん。

彼らの住んだ雰囲気が、今も残されている。


併設されている簡単なレストランで新鮮な野菜をつかったランチプレートをいただきました(^.^)

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カンタベリー

2020-04-08 05:41:41 | イギリス
2011年5月イングランド南部をめぐる《手造の旅》+2005年3月
英国国教会のトップはロンドンではなくカンタベリーにある↓

1170年に大司教のトマス・ベケットが国王からの刺客に暗殺される事件が起きてから、この地は巡礼がやってくるようになった。
巡礼たちが各地の物語を語り合う形式で14世紀に書かれたのが「カンタベリー物語」。
↓大司教ベケットが祈っている最中に、四人の騎士がこの場所で襲撃したとされている↓それを暗示する剣の形をした表示(堂内2005年3月に訪れた時の撮影)このモニュメントは現代になってから付け加えられたもの

大聖堂の中で祈っている最中に暗殺されたというのは衝撃的な出来事だったのだ↓
↓下は15世紀はじめにヘンリー四世の墓の飾りとして描かれた聖トマス・ベケットの暗殺シーン↓

↓「ここにベケットの廟が1220年から1538年まであった。ヘンリー八世が破壊するまで」と書かれている↓

ヘンリー八世によってカトリックから英国国教会に変えられた時に修道院の多くは破壊され、巡礼という制度も止めさせようとしていたのだ。
しかし、人々の祈りは止められなかった。↑今でも一本のろうそくが灯されて続けている
今、見ている大聖堂はトマス・ベケットの時代12世紀末には基本的なかたちができていたのか
↓このステンドグラスは13世紀につくられてその後壊された断片をもとに復元されてはめこまれている↓



大聖堂の中での見所、もうひとつはブラック・プリンスの墓

ベケットから百五十年ほど後の英仏戦争時代に活躍したエドワード三世の息子。
勇敢で有能だったとされているが父より早くに病死したので王にはなっていない。
※その息子のリチャード二世が後嗣となった
イギリスの紋章史のはじめにでてくるブラック・プリンス

彼の息子リチャード二世は、いとこであるヘンリー四世(前出の暗殺シーンのパネルの墓の主)に敗れて獄死した。
大聖堂は基本的にゴシック様式だが↓


↓ところどころにロマネスク的な装飾がみられる

↓大聖堂にはかつて修道院が付設されていたがその名残の塀かしらん

↓この門の近くに

↓「クリストファー・マーロウがここで子供の頃に教育をうけた」と書かれた記念メダルがはめこまれていた。
貧しい靴屋の息子だったが才能が目に留まり、教会がサポートしてケンブリッジ大に学んだ。

マーロウはシェークスピアと同年生まれとされる。
映画「恋に落ちたシェークスピア」の中でシェークスピアと間違われて殺されてしまうシーンがあったっけ。
**
カンタベリー大聖堂敷地への入口門として16世紀に建てられた門↓



中央、ブロンズのキリストは現代のものに取り換えられた↓



旧市街には何百年モノ?と思わせる古い家がたくさんあるが
なかでもこの傾いた家にはびっくりさせられる↓

入口には「1647年キングス・スクールの店だった」と書かれているが

考古学的調査によると1617年に建造されたモノとされている。
↓これはほんとに中世の城壁の一部たったのではないかしらん


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