旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

コインブラ旧市街

2019-04-30 20:00:00 | ポルトガル
丘の頂上にあるコインブラ大学を出て旧市街の坂道を川に向かっておりはじめる
このあたりはローマ時代のフォロがあった
↓これだけ坂だらけの土地で平らなフォロをつくろうとすると人工の土台が必要になる。
↓ローマ人が同じような土木工事をした例は今まで他にもたくさん見てきた。
↓これがその石積みなのだ↓

二千年近くも平然と建物を支え続けている。
建物を修復すると必ずこうしたローマ時代の土台がでてくる↓

この道は「デクマヌス」↓

ローマ人の街作りでは必ず東西南北碁盤の目に真っ直ぐな道を通した。
その名残が現在まで続いているのだ。

↓この青い矢印は?

ファティマの聖母への巡礼路を表している。
第一次世界大戦が終わる前年に羊飼いの子供たちの前にあらわれたとされる聖母の奇跡があった場所。
※2014年に訪れた時のブログをこちらからごらんください

↓こちらの右の教会はイエズス会のもの↓

イエズス会は一時追放されていたが、19世紀になってから再びみとめられるようになっている

★旧大聖堂の後陣がみえてきた

美しいロマネスクにわくわくする(^.^)


正面玄関↓


大聖堂前のこの場所には20世紀中ごろまで黒いところまでテラスがあったそうだ↓

フランコ時代の司教が大きく改築(壊してしまった)とのこと。

↓坂の途中にこんな女性像が↓これは?

中世から近代まで、コインブラには水道がなかったので、水売りがいたのだそうだ。
…ローマ時代には水道橋で新鮮な水が供給されていたというのに。

↓メディナ門から城壁外に出る

↓インド映画の撮影が進行中


↓広い歩行者天国の通りに突然こんな教会が見えた↓
これはいったい?

「道を通すのに壊しちゃったんですよ」
ガイドさんは事もなげに言う。
19世紀に町を近代化する時、ヨーロッパの街はどこも大きく改変されたがその時に古い建物は惜しげもなく壊された。
この教会もそのひとつだったのか。

歩行者専用道路を歩くと16世紀からの教会と修道院があった。ここは壊されなくてよかった。

***
「金平糖」はもともとポルトガル語の「confeito」からきている。
元祖こんぺいとうを売っている店があるというのでご案内いたただいた↓

試食どうぞ(^.^)

たくさん買っちゃいました。

車に乗って、ふたたび目の前にコインブラの旧市街がそびえている↓
↓頂上の時計台が大学。いやはや、ほんとに坂の街だ↓


****
今日の宿泊は郊外のポサーダ。
スペインでいうところのパラドールにあたる。

ここかとおもったら

そのすぐ前に新しくされた快適なホテルがあった。
入り口から逆側にでると広々とした芝生テラスになっている↓

料理もおいしい
サロンに置いてあった新聞に、天皇陛下退位の写真が載っていた

今日は「平成」最後の日であった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コインブラ大学

2019-04-30 15:00:00 | ポルトガル
コインブラ大学の正門前に着くとすぐにかわいいペンを売りにやってきた学生さん

大学の行事のための資金を学生自身の手でもまかなえるように、伝統的にしていることの一環だそうだ。

コインブラ大学のある場所そのものがポルトガルの歴史と深くつながっている。
↓この門の向こうが旧キャンパス

もともとはローマの神殿があった丘だが、中世には王宮+城塞になっていた。
1537年にこのコインブラ大学がここに建設された↓

中に入ると丘の頂上に位置していることがわかる。
この場所に大学を移動させてコインブラ大学としたジョアン三世の像が立っている
※大学の前身は1290年にリスボンに創立されたラテン語の「一般教養学院」

上の写真で写っている建物が歴史ある図書館で、以前はここと礼拝堂ぐらいしか見ていなかったのだが、今回はみっちり案内してもらった。
↓数年前から時間予約制で地下の入口から入るように変わった

我々は15時の入場。
ここから入った部分は数年前まで実際に学生が勉強室にしていたのだという。

ポルトガルの人文学者・画家のフランチェスコ・ホランダの展示会をやっていた↓

前出のジョアン三世王に仕えた人物

↓上の古い図書館部分に入っていく(写真撮影禁止)
圧倒される書架が左右にそびえている。
ところどころに白い紙が挟まっているのは、その部分が定位置の図書が貸し出されているからだそうだ。
この古い図書館で、意図的に飼われている動物がいる。
それは、コウモリ! 本につく虫を食べてくれるからだそうだ
人間の出入りする昼間は出てこないが天井近くの巣で眠っている
↓この扉の隙間から外へも出入りしている

夜にはテーブルにビニールを敷いておき、朝その上にちらばったコウモリのフンを掃除するのだと、係員のおじさん↓
↓さて、外にでましょう。

以前はこの入口から入っていたで外からの砂が部屋にはいるという問題があったとのこと。
**
大学礼拝堂へ

タイル装飾は18世紀ごろに付け加えられた

↑タイルのデザインは数限りなくあるので壊れると同じものを補充するのはたいへん
似ているのでがまんすることもあるそうな
↓主祭壇近くにはマクラダの聖母が冠をかぶっている

ポルトガルの王と王妃は伝統的に冠をかぶらなかったそうだが、
それは、ポルトガルの守護聖人がこのマリアであり、
彼女が冠をかぶっているから、だと教えてくれた。

↓オルガン

***
階段に制服のマントを着た学生たちがたくさんいる↓

今日は、近く行われる祭りに配られる冊子のための写真をクラスごとに撮影しているのだそうだ。
大学に制服?と、思われるかもしれないが、大学にこそ制服が必要だった。
★貧富に関係なく学生たちが学ぶことができるように
服装で差別・区別されないように、
制服が支給されたのだそうだ。
当時の校則に「華美に過ぎる服装をしないように」という項目があったそうな。


実際の教室がある上の階へ
ついさっきまで授業をやってきた大教室↓


★「建築学部PHDの試験中だそうです。三時間ぐらいはかかるんですよ」↓
え?そんなところを上から見ちゃっていいんですか?

これ、今回いちばん興味深い光景だった
試験をうけているのは左手手前でPCを開きながら説明している人
右手で教授たちがそれを聴いている。
向こうでは学生が許可した友人や家族が見守っている。
この部屋は1655年から、こうして使われてきたそうな。

コインブラ大学で学位をとれば、
それはほんとうに栄誉な事なのだろう(^.^)

コインブラ大学はポルトガル語圏で最初の大学であり、現在でも新しい言葉が出てきた時にポルトガル語でそれをどう呼ぶかを審査している機関があるのだそうだ。
これはつまり、フランスの「アカデミー・フランセズ」みたいな場所だということ。

↓大学は伝統的に宗教者がはじめたものだった。
ダ・ガマ家の人もそこにはいたのですね


建物の屋根に乗っていた天使の像のホンモノはこちら


****
↓これから降りてゆく旧市街の3D映像があった↓

頂上の大学から、指さしている門のところまで降りていこう。
↓途中にあるロマネスクの大聖堂は今もほとんどそのままのカタチで見えている↓









コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ポルト半日観光

2019-04-30 12:00:00 | ポルトガル
レロ・イ・イルマオン書店は入場料をとる書店。

入ってすぐ、全面が装飾された書棚が広がる

※この書店の写真をこちらに載せました
**

朝食

曇りがちでけっこう寒いと感じる朝、まずは大聖堂へ↓まるで要塞のようなつくり

実際にここは防衛拠点でもあったようだ。古くはローマ人の神殿があったとされる丘の上。
↓騎馬姿のヴィマラ・ペレスは九世紀の人↓イスラム教徒をこの地から追い出したとされる

当時はまだポルトガルという国はなく、スペインという国の概念もない。
イスラム教徒によって北スペインの山間部に、追い詰められたキリスト教徒最後の国アストゥリアスがあったのみ。
彼はその王族の血を引くとおもわれている。

スペインのガリシア地方とポルトガルの故郷を流れるミーニョ川とこのポルトを流れるドゥエロ川の一帯をイスラム教徒の手から取戻したので、ポルトガルの基を築いた人物とみなされているのだ。

***
大聖堂の内部と付属の修道院

中庭が二つのこされている。奥で修復が行われていた方が古そう↓

↓現在でも司教の埋葬がつづけられている聖具室↓


大聖堂前の広場にあるツーリストインフォメーションの建物↓解説をきいておどろいた

この建物はもともと大聖堂の近くにあったのを移築したのそうだ↓このあたり?

大聖堂の周辺は二十世紀はじめまで中世からの建物を利用した古い家がぎっしり建てられていたのだと分かった。
残されているこういう家だろう↓

↓ポルトの古い家並みとドゥエロ川を見渡す高台にある↓


横を下りていく急な階段の道がある↓

****
「ポルトでいちばん細い家があるんだよ」と指差す方向には↓

教会が二つならんでいるだけ。
でも、よく見ると二つの教会の間に幅一メートル程の二階建ての家が挟まっている!

左は1628年に建設されたカルメリータ会の教会と修道院、
右はその百年ほど後つくられたカルモ会の修道院
間に家を建てたのは、前者は女性修道院で後者は男性修道院だったからだそうな(^.^)

*****空はいつの間にか青空
川沿いのリベイラ地区まで降りてきた

ポルトでもっとも古いエリアで、商業用の広場の奥に古い家がひしめき合っている

15世紀のエンリケ航海王子が生まれた家がすぐ近くにあるので、この銅像も


エッフェルの弟子が建設したドン・ルイス一世橋を渡って対岸へ

昔はポルトワインを積んで行き来していた船が今は観光客のクルーズ船になっている

対岸のカレ地区はポルトワインの工場がずらりとならぶ
その中でサンドマンを見学↓

1790年に若きスコットランド人ジョージ・サンドマンがロンドンで創設した会社。
ワインをつくることができない(できなかった?)イギリスではスペインやポルトガルのブドウをつかってイギリス人好みのワインをつくっていたのだ。
サンドマンのシンボルマークはこの帽子とマントのスタイル↓

帽子はスペインのヘレス(英語読みすればシェリー)デ・ラ・フロンテラの男たちのスタイル。
マント(ポルトガル語で「カッパ」)は、ポルトガルのコインブラ大学の学生が今でも着ているスタイル。
二国に工場を持っていたサンドマン氏が考案したシンボルマークとなった。

一見古めかしく見えるが最新設備の工場。
↓このパイプにはワインがながれているのを見せるために透明にしてある

↓なんと百年をこえるビンテージもあるのだそうだ↓

なんと強靭なワインだろう。

ふたたび橋を渡りリベイラ地区へもどる
 


昼食は路地の一軒


メインの鴨ごはんはいたくおいしかった(^.^)


午後はコインブラへ向かいます
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北方向からポルトの街に到着

2019-04-29 20:00:00 | ポルトガル
スペインのガリシア地方からミーニョ川を渡ってポルトガルに入った↓

北側の国境からポルトガルへ入るのははじめて。
「日本のワインが蔓棚でつくられるのはポルトガル北部から製法が伝わったからだという説があります」と、
三十年前に教わったことがあった。
↓たしかに、ヨーロッパで一般的なブドウ畑というより日本的なブドウ棚に見える↓

バルセロスのドライブインで休憩。

ポルトガルのシンボルのニワトリが↓

↓ポルトガルのお菓子といえばパステル・デ・ナタがすぐにうかぶ↓

↓アズレージョ(タイルそのもののことをポルトガルではこう呼ぶ)にコルク

**
午後五時すぎにポルト中心部のホテルにチェックイン。
小さな窓から市街が見える↓


夕食へ行く前に市街を散歩することにした。
ホテルを出てすぐ左の道、落書きでいっぱいの細い階段をおりてゆく↓

↓この長ーい屋根は鉄道の駅なのです

↓二十世紀初頭にここにあった修道院を壊して駅を建設した

↓なので駅の名前は修道院と同じ「サン・ベント」(駅)という名前になった

入ると、ポルトガルの歴史や風俗をえがいたタイルが美しい↓

↓ポルトガル史で最も有名な「エンリケ航海王子」が、1415年に北アフリカ現スペイン領ののセウタを攻略した図↓

※1580年にポルトガル自体がスペインに併合された際にスペイン領になり1640年にポルトガルが復活してもそのままになった
その上に描かれているのは↓エンリケ航海王子の父母にあたるジョアン一世とイギリスから輿入れしたフィリッパ・ド・ランカスター(赤いバラが家紋)


近くのリベルダーデ広場は駅が開通した当時に設計された新しい街の中心となった場所↓
19世紀末からの立派なビルが並び、ペドロ四世王(=ブラジル初代王ペドロ一世)の騎馬像がある↓

↓坂を登って(どこも坂だらけの街だが)今晩のレストランへ向かう
路面電車はぎりぎりのところを走ってくるのでじゅうぶん気をつけなくては


途中でみつけたてづくりお土産のお店に寄り道

↓坂の上のイルデフォンソ教会

***
なかなかモダンなお店↓

すぐに予約客でいっぱいになった
↓カルド・ヴェルデは日本人にかならずうける

↑簡単に言えばじゃがいものスープにキャベツを入れたものなのだが、キャベツが「コウブ・ガレガ」という原種のようなワイルドなものをつかっている
メインにはタコ


ホテルへの帰路、小さな酒屋でヴィンテージのポルトを売っていた


ホテルの前のイルデフォンソ教会のタイルがライトアップしている。
このタイルは教会が出来たころにはなく、18世紀以降にブラジルからやってきた人々が流行らせた装飾だったのだそうな。
明日の午前中にポルトの街をガイドさんとめぐろう。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もっとリスボン

2014-04-15 00:03:55 | ポルトガル
《手造の旅》ポルトガルも、実質最終日。

朝、バイシャ地区のホテルから歩いてサンタ・ジュスタのエレベーターへ。この時間の方が空いているというガイドさんのアドバイスにて1902年に完成したままなのだろう、手で蛇腹のドアを開け閉めする★利用料金は一回五ユーロ!ハコの中で支払うスタイル。ここもしかし、きのう買った24時間有効の一日券が使えるのだから、ほんとに助かります。

五十メートルほどの高さでも、街は全然違う見え方をする。エレベーターを降りてさらに細い螺旋階段をつかい屋上のテラスへ

きのう登ったサン・ジョルジョ城が向かいに見える。この区画整理されたバイシャ地区は1755年の地震の津波ですべてが流されてしまった後に、ポンバル侯爵の主導により実現されたもの。


同じく1755年の地震で壊れたカルモ教会のそばへ延びる回廊をつかってバイロ・アルト地区のシアードと呼ばれるエリアを歩くリスボンのおしゃれな地区なのだそうだ。おや?この人は一日券のデザインに使われている人じゃないかい
フェルナンド・ペソアというポルトガルの詩人の事をはじめて知った。あとから訪れたジェロニモス修道院にある彼の墓に刻まれた言葉、とても気に入りました。
通りの名前になっているガレットも19世紀前半の詩人だそうだ。

そのまま通りの突き当りには、大航海時代のポルトガル詩人カモンイスの像がある。王族の血縁であったと言われるが、アジアでの戦争で片目を失っている。晩年にはポルトガル・アヴィス王朝は断絶してスペインにとりこまれ、彼のポルトガル語の詩は顧みられず、貧困のうちに没した。


きのう見かけた卵入りのパン、大きい版

ビカのケーブルカーに乗りましょ降りて少し行くとリベイロ市場「アスパラないかな」と探したが、細いモノが時々あるだけだった。

ここからバスにのり、ベレン地区へ。

ジェロニモス修道院は、大行列!

でも、ガイドさんと一緒だから並ばずに入れてほっとするさっきのペソアの墓がこれ

大聖堂は堂々たる椰子の木の様な柱で支えられている
ヴァスコ・ダ・ガマの墓近くの懺悔室への入り口にはアジアやアフリカの顔が彫りこまれている
ガマの向かいにある先ほどの詩人カモンイスの棺コインブラのガイドさんによると、この中に彼の遺体はなく、記念碑的な棺なのだそうだ。

ジェロニモス修道院の隣には有名なナタを売っているお店がある。今日は長蛇の行列だろうから無理かな…と思っていたら、ローカルガイドさんが、先に行って並んで買っておいてあげるよ、と、ご親切(^^)シナモンをふりかけて
みんなでいただきました

バスにのってすぐにベレンの塔に到着1594年に日本からの少年たちが見たこの塔はまだ中洲に建てられていたはず。1755年の地震でこのあたりは大きく隆起して岸とつながってしまったそうな。
貝も拾える 発見の記念碑はやはり大きいそれぞれの人物について、十年前よりはよほど理解することが出来るのが嬉しい。

バイシャ地区へ戻り昼食カタプラーナもおいしかったけれど、追加で注文したアスパラ炒めが好きなんです(^^)昼食後は国立古美術美術館へ向かいます

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする