旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

デス・ヴァレー経由ラスヴェガスへ

2017-06-12 18:00:52 | アメリカ西部

デス・ヴァレー国立公園はカリフォルニア州とラスヴェガスのあるネヴァダ州にまたがっている。入口の看板↓ここはまだ冷たいと感じるぐらいの風が吹いていたが、これから全米最低地点(海面下85.5メートル)のあるデス・ヴァレーまで走る↓

ところが道は一度登る。正面の山を越えなくてはならない↓どんな場所を走っているのか?下の地図で確認してほしい↓↓

アメリカ本土の最高峰であるマウント・ホイットニー(標高4421メートル)と、最低地点のバッドウォーター(下の地図で海面下86メートルと表記)はとても近い距離にある↓今はその間のオレンジ色=砂漠を突っ切る道路を走っている。日本ではとても出会えないワイルドな地形だ↓

次に下車したビジターセンターの展示↓

この場所はしかし、不毛ではなくボラックスという鉱物資源が採掘される↓日本語で「ホウ酸ナトリウム鉱石」とされるもので、これを生成したものが、ガラス繊維や磁器のうわぐすり、はたまた庭にまく除草剤にもつかわれるのだそうだ↓

ボラックスの採掘は1882年にはじまった。パシフィック・コースト・ボラックス社の副社長だったクリスチャン・ザブリスキーはここでの責任者。1920年代に採掘量がへりはじめると、早くもデス・ヴァレーの観光利用を考えはじめ、1927年には最初のホテルをオープンさせる↓

デス・ヴァレーは1933年にはナショナル・モニュメントに認定、1994年にはついに国立公園となった。

サブリスキー氏が気に入っていた場所は、今では「ザブリスキー・ポイント」として、観光バスの定番停車場所となっている↓

駐車場から少し上の展望台に上がると、絶景の陰にかつての採掘場所もみえる↓

★バッドウォーター~全米最低地点↓塩の結晶が白くひろがっているのが見える↓

海面下85.5メートル↓ とにかく暑い場所

見上げる崖に「SEA LEVEL」の標識がつけられているのが見えるかしらん↓あそこが海面の高さなんだ↓

★アーチスト・ポイントへの道はくねくねしていて大型バスでは入れない。我々の前を走っていたRV車両も入るのを断念↓

たしかにこの道じゃぁ大きな車は無理ですね↓

絵描きのパレットのようにいろいろな色が見える崖があるからこの名前になった↓

★デビルズ・ゴルフコース 未舗装で、大型車はちょっと入りにくい↓

 ガラガラの岩に見えるのはすべて塩の結晶! 叩くと「コーン」といった乾いた高めの音がする。この音がゴルフのカップインの時の音に似ている。夜、暗闇でこの音が聞こえると、悪魔がゴルフをしているみたいだというので、この名前がつけられたのだとか↓

さらに走って、ラスヴェガスが見えてきた↓

ストリップ通りのホテルだが、小松的にはまだ大きすぎないモンテカルロホテルを選んだ↓

夜九時半からのショーに行く方もあり、みなさんお元気です(^.^)

明日は、LA経由で帰国です✈

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マンサナ「日系人収容所」

2017-06-12 10:00:23 | アメリカ西部

青空に輝く雪山が国道395に併走している↓

そこに、監視塔がぽつんと立っていた↓

マンサナは、第二次大戦中に日本系アメリカ人が収容されていた施設である。「リロケーションセンター(移住センター)」という名前が書かれているが、当時のアメリカ政府首脳は「コンセントレーション」(収容所)という呼び方をしていた。西海岸に住んでいた日本系のアメリカ人は、財産を放棄させられ身の回りのモノだけをもって「移住」させられていた。 かつての姿を復元した模型(ビジターセンター)↓

 

↑背景の同じ山が、今日も見下ろしている↓

ヨーロッパでナチスがつくったような「収容所」ではないことは、救いである。こういうダンスも時には認められ、リビングルームと呼ばれる建物もあった↓

数少ない、残された建物のひとつが、この「リビングルーム」。↓現在のビジターセンターである↓前出の模型の中央に同じ建物があるのが分かる↓手前に見える石と黒いプレートは、日系人収容所が置かれていた地名。カリフォルニアを中心にしてアメリカ本土十一か所にあった場所の名前が記されている↓

十一か所に収容された日系人の数は約十二万人。ここマンサナにはそのうちの約一割一万二千人が連れてこられた。

この建物は、戦後、この地域の郡が買い上げ、退役軍人の為の施設になり、その後四十年にわたって建設会社の倉庫のような場所だった。

日系アメリカ人が正式に名誉回復された1980年代にもまだそのままだったが、1996年になってやっと、「日系人収容所」の事を歴史的に記憶しておかねばならないとして、歴史的な保存場所に指定された。

しかし、これだけの展示がなされるようになったのは、ごくごく最近の事だそうだ。ロサンゼルスに住むガイドさんが、その変化にびっくりされていた。

真珠湾攻撃の後、敵国から移民した日系人が周囲から憎悪されたのは理解できる↓

周囲の憎悪から「安全のために」に日系人を移住させる、というのも理由になった。ただし、財産は放棄させられ、数日のうちに手に持てるだけの荷物にまとめて、家族ごとにこんなタッグを付けさせられ↓

時には、家畜用のトラックにものせられ↓

軍警察が管理するこの場所へ連れてこられた↓ 彼ら自身が住む建物を建てるところから労働がはじまった。「夜、寝床に横になると、破れた屋根から空が見えた。星がおそろしいほどきれいだった。翌朝起きると、布団は砂まみれだった」

冒頭写真の監視塔はこんな姿だった↓

現在、博物館にはそのタッグのレプリカが置かれ、入館者はそれを手に取ることができる↓

**記録映画は当時の様子を分かりやすく解説してくれている※残念ながら2017年六月現在日本語版はなかった

収容所敷地は1.6㎞四方もあり、農場や教会・寺、学校もあった。子供たちは通常の授業をうけることができた。「でも、アメリカの歴史を学ぶとき、国民の権利や自由については、なかなか難しかったけれどね」と、元収容者がインタビューで語っていた↓下の写真はアメリカ史の授業をうけている収容所の子供たち↓

収容されてしばらくすると、日系人の怒りと先が見えない不安は重く淀んでいった。若者が軍警察に拘留されたのをきっかけに1942年の12月6日、管理する警察の前に群衆が集まる。なにかのきっかけで兵士が発砲。ジェームス・イトウとジム・カナガワの二人が死亡し、二十人以上が負傷した。※この顛末の詳細はよく分からない 真珠湾攻撃から一年が近づき、周辺住民の収容所設置に対する不満もあったと思われる↓

収容所内の慰霊塔は、1943年の8月に設置されている↓収容されていた間に百五十人ほどが亡くなった↓

****

アメリカという国の素晴らしさは、それがずいぶん遅くなったにせよ、この強制収容の間違いを、大統領がはっきりみとめて和解し、この場所をこうして整備していること↓1988年レーガン大統領が「過ち」だったと公式に語る映像↓

「過ち」の様子は、収容されていた写真家・宮武東洋によって、多くの記録が残された↓彼はヨセミテを撮影した写真で有名なアンセル・アダムスの友人で、アダムスの撮影したポートレートもある↓

恐ろしいほど砂が舞う収容所の様子を、宮武東洋はとても美しく記録している↓この写真に写っている山は、今日も同じように少し雪をまとって美しかった↓

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする