旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

北方向からポルトの街に到着

2019-04-29 20:00:00 | ポルトガル
スペインのガリシア地方からミーニョ川を渡ってポルトガルに入った↓

北側の国境からポルトガルへ入るのははじめて。
「日本のワインが蔓棚でつくられるのはポルトガル北部から製法が伝わったからだという説があります」と、
三十年前に教わったことがあった。
↓たしかに、ヨーロッパで一般的なブドウ畑というより日本的なブドウ棚に見える↓

バルセロスのドライブインで休憩。

ポルトガルのシンボルのニワトリが↓

↓ポルトガルのお菓子といえばパステル・デ・ナタがすぐにうかぶ↓

↓アズレージョ(タイルそのもののことをポルトガルではこう呼ぶ)にコルク

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午後五時すぎにポルト中心部のホテルにチェックイン。
小さな窓から市街が見える↓


夕食へ行く前に市街を散歩することにした。
ホテルを出てすぐ左の道、落書きでいっぱいの細い階段をおりてゆく↓

↓この長ーい屋根は鉄道の駅なのです

↓二十世紀初頭にここにあった修道院を壊して駅を建設した

↓なので駅の名前は修道院と同じ「サン・ベント」(駅)という名前になった

入ると、ポルトガルの歴史や風俗をえがいたタイルが美しい↓

↓ポルトガル史で最も有名な「エンリケ航海王子」が、1415年に北アフリカ現スペイン領ののセウタを攻略した図↓

※1580年にポルトガル自体がスペインに併合された際にスペイン領になり1640年にポルトガルが復活してもそのままになった
その上に描かれているのは↓エンリケ航海王子の父母にあたるジョアン一世とイギリスから輿入れしたフィリッパ・ド・ランカスター(赤いバラが家紋)


近くのリベルダーデ広場は駅が開通した当時に設計された新しい街の中心となった場所↓
19世紀末からの立派なビルが並び、ペドロ四世王(=ブラジル初代王ペドロ一世)の騎馬像がある↓

↓坂を登って(どこも坂だらけの街だが)今晩のレストランへ向かう
路面電車はぎりぎりのところを走ってくるのでじゅうぶん気をつけなくては


途中でみつけたてづくりお土産のお店に寄り道

↓坂の上のイルデフォンソ教会

***
なかなかモダンなお店↓

すぐに予約客でいっぱいになった
↓カルド・ヴェルデは日本人にかならずうける

↑簡単に言えばじゃがいものスープにキャベツを入れたものなのだが、キャベツが「コウブ・ガレガ」という原種のようなワイルドなものをつかっている
メインにはタコ


ホテルへの帰路、小さな酒屋でヴィンテージのポルトを売っていた


ホテルの前のイルデフォンソ教会のタイルがライトアップしている。
このタイルは教会が出来たころにはなく、18世紀以降にブラジルからやってきた人々が流行らせた装飾だったのだそうな。
明日の午前中にポルトの街をガイドさんとめぐろう。




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サンチャゴ・デ・コンポステラの午後

2019-04-29 15:00:00 | スペイン
半日観光を終えて、自由のランチにはガリシア料理を。
マテ貝はガリシアの名産↓



昨夜に続いてホタテも、えびも

定番のタコも

↓イカスミが練り込んであるコロッケ、また食べたい

**

サンチャゴ土産のひとつにこの黒い石がある↓黒曜石?いえ、ちがうんです

持たせてもらうと軽いのでびっくりする。
木炭が化石になった「アサバチェ」と呼ばれている石。
それほど高くはありません。

お土産にレプリカの「コデクス・カリスティヌス」はいかが?↓
中世のフランスで書かれたサンチャゴ巡礼への道案内ガイドブック↓


***
中世のサンチャゴの街は木の家ばかりだったが、度々火災が起きたので16世紀には石造りが義務化された。
だが、それ以前から生き残っている木の家をみかける↓

↓観光案内所はそのなかでも最も古い家を使っている↓

観光案内書の向かって左の路地は「サンチャゴでいちばん細い道」だそうです↓


↓石造りのファサードに紋章を時々みかける↓建物の所有者を表している

つまりは「大家さん」ですな。
↓この貝殻マークは持ち主が大聖堂だそうだ↓


****
大聖堂前に止まっていたプチ・トレインは簡単な案内と共に四十分ほどでサンチャゴの街の外郭をまわってくれる↓

六ユーロです↓


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サンチャゴ大聖堂と広場を見学

2019-04-29 11:00:00 | スペイン
サンチャゴ大聖堂は今回やっと正面ファサードの修復が終わっていた。
昨夜の様子

パラドールでの朝食の部屋からの眺め


正面の中心にはもちろんヤコブ=サンチャゴの像↓
↓下の段の左右には弟子でヤコブの遺体をガリシアまで船で運んできた弟子のテオドロとアタナシウス

キリストの死後、ガリシアで布教にはげんでいたヤコブだったが、イスラエルに戻って殉教した。その首なし遺体を弟子二人がひそかに船に積んで布教した地へ運んだとされている。

遥か後の西暦811年、星のカタチの光に導かれた(コンポステラとは「星の丘」の意味)隠者がヤコブの遺体を発見した。
それがこの場所、まずは小さなお堂が建てられた。
アストゥリアス王(その当時はまだスペインという国の概念はない)アルフォンソ三世がロマネスクの聖堂を建てたが、西暦997年にイスラム教国が攻め入って壊されてしまった。

現在の聖堂はその後に西暦11世紀から13世紀までかかって建てられた三番目のもの。
聖堂前の広場が「オブラドイロ(ガリシア語で「職人たち」の意味、※諸説あり)広場」と呼ばれているのは、大聖堂建設のために職人たちがここで働いていたからだと今日のガイドさんのご説明。

↓広場の敷石が不規則なのは廃材をつかってとにかく整地したせいだそうな。ま、いろんな年代が混じり合っていることでしょうけれど。


大聖堂の正面玄関と塔は1750年からフランスの建築家がバロック様式に変えてしまったけれど、広場の北側にある旧王立病院の入口はロマネスク時代のまま↓

構図も無理なくきれいにはまっているからオリジナルに違いないだろう

↑彫も美しい

↓我々が泊まっていたパラドールの正面はルネサンス風

入り口左手にイサベル女王の紋章と言われたが、上に鷲が一羽乗っている。ヒメノ朝の女王としての紋章?
入り口右手の紋章はハプスブルグの双頭の鷲がついているから孫のカール一世のものだろう。

↓聖堂のテラスから広場を見晴らしたところ※2012年撮影、2019年4月現在は修復中で入れません

↑広場の聖堂向かい側に位置している建物は同じくフランス人建築家が18世紀後半に大司教の舘として建てなおしたもの。
大司教の紋章がつけられている↓

それ以前のこの場所には牢獄があったのだそうだ。

聖堂内部に入る前に正面入り口に向かって右にある博物館の見学からはじめた。
今朝のガイドのルチアさんはこの博物館の学芸員だったのだそうで、とても詳しい説明が聴けた。
※博物館内部は撮影禁止
今回はじめて知ったのは、「聖遺物の祭壇」に納められている百以上の聖遺物の中に★「ヨハネ・パウロ二世の血」までもが奉納されていたこと。かの法皇は1981年にサン・ピエトロ大聖堂前の広場で撃たれた事がある。その時拭き取られた血が誰かの手によって大事に保存されていて、法皇が列聖された2013年にこちらにもたらされたのだそうだ。
巨大な真新しい祭壇の左隅に血を吸った小さな布片があった。
また、★「聖ヤコブの歯」も、後世にイスラエルからもたらされて、同じ祭壇の右下部に納められていた。ヤコブの頭部は刑死したイスラエルにのこされていたということ。

大聖堂内部に遺体を葬ることは16世紀は禁止された。臭気がひどく衛生面が懸念されたからだという。
代わりにこの回廊中庭が建設された↓

↑現在でも宗教者の埋葬はこちらで続けられている。
↓中庭にあった巨大な石の器は何?

↑これはかつて聖堂の北入り口のすぐ外にあった噴水の水盤。
どろどろに汚れた巡礼たちは、この噴水で身体を洗ってから聖堂内部に入るのを許されたのだそうだ。
脱いだぼろぼろの服を焼く場所も別の場所にもうけられていた。

同じ中庭に貴族アルバ家(ゴヤと関連のあるALVAではなくALBA)の礼拝堂↓

「このファミリーは、馬に乗ったままこの自家の礼拝堂まで入る権利をスペインの王から賜ったのよ」
当時、王だけは乗馬のまま教会内部にも入れたのだが、特別に同じ名誉を拝領したということ。
もっとも、今も続く同家は一度もその権利を行使したことはないそうだが。
内部には立派に修復された祭壇があった↓

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大聖堂内部はまだまだ修復中だった

ヤコブの像のところへ登る階段も足場がある。
巨大な香炉を振る「ボタフメイロ」の滑車はあるが↓

今はなかなか行われない状況だ。
ミサに参列するための椅子もまったくない状態である↓

※↑柵はボタフメイロの時に近づきすぎる信者が怪我をしないようにもうけられた。
それ以前は巨大な香炉に顏をヒットされる人もあったのだそうだ。
★こちらからボタフメイロの時の様子をごらんください

大聖堂の修復は、有名な「栄光の門」の周辺にも及んでいる。
かつては巡礼たちが触れていた門は2012年にはすでに触れなくなっていたが、今ではこの「マエストロ・マテオ」の像を見ることさえも別料金(予約制)になってしまっている。


地下にあるヤコブの墓だけは見ることができる↓


9世紀当時にはこの周辺には墓場が広がっていた。
キリスト教以前からの墓が大聖堂の地下には残されていて、そこに降りる階段入口が見えた↓



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