旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

びわ湖大津プリンスのボーセジュールで夕食を

2019-04-07 21:00:13 | 国内
《手造の旅》京都・大原と大津、二泊目。
浮御堂西教寺三井寺石山寺を見学して17時に、湖畔にそびえる大津びわ湖プリンスにチェックイン

※上の写真は昨年秋のもの

一般的なパッケージの夕食は洋食バフェか中華だというのだが、調べてみると38階のフレンチが追加料金(¥3500のプラス)で利用できるとわかった。
せっかくだからこれを選んだ↓チェックインしてすぐにテーブルを下見

メニューは多様でいちばん高い近江牛のコースは¥1万3千円まである。

○アミューズ↓
新玉ねぎ、トマトのコンフィ、牛肉とピスタチオのパテ


○サラダと滋賀県産紅鱒↓
左上はホタルイカのよう、真鯛の天火焼はその下?ぷちっとしたジュレに金箔がきれい


○カリフラワーのポタージュ、フランス産チョリソ添え↓



★ワインのセレクションは極上品までずらりとあったが
滋賀県産だというこれを↓

調べてみると、滋賀県の四つのホテルが地元の太田酒造というところと共同してつくっているものだった

これ、次回訪れても注文したい。

メインは肉かサカナをチョイス
○オマールエビにキャビアソース↓

↑イトヨリとマトウダイのグリル加減が絶妙
焼きすぎていないのがよい

↓メインコースを肉チョイスにするとこちら
○牛フィレグリルと鴨のフォアグラ、ポルトソース※写真がぼけてしまったので小さめでのせます


○近江牛のコースを注文された方には180グラムで登場


コース外だったが気になった方が注文されたリゾット

デザートは
○いちごの「デグリネゾン」とあるけれど、それって何?

調べてみると…ネットの「おしえてgoo」での質問・回答から意味がわかりました↓
「declinaisonの動詞delinerに『変格させる』という意味があることから、『材をいろいろ変化させて活用する』という意味」
要するにいちごを多様なかたちでデザートにして一皿にしている、のですね。

カフェにもこんなのがついてきます


充実した大津見学の日、楽しい夕食で〆ることができました(^.^)

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石山寺

2019-04-07 17:00:00 | 国内
石山寺にはほんとうに石山があるのだ↓※昨年10月の下見での写真

↑境内を入ってまっすぐいくとこんな場所にでる↓

8世紀に良弁(ろうべん)がやってきた時にはもっと大きな池だったのだろう
↓東大寺大仏建立のための黄金を探してやってきた時、岩の上で釣りをしている老人に出会った↓

↑岩の前に設置された看板に「縁起」からの絵が載せられていた。
この老人は地元の金毘羅神で黄金は別の場所で見つかることを暗示している

こんな経緯で、石山寺の名前ははじまったのか。
階段を登って、美しい多宝塔の下にまた大きな石が荒々しく見えている↓

↓降りる時に上から見下ろしたらこんな感じ


↓大石のすぐまえに良弁が地面に刺した杖がそのまま木になったという桜がある


石山寺の本堂は大石から左に折れてもう少し登ったところにある↓

↓なんと紫式部がここに滞在して「源氏物語」の構想を練っていた部屋がある

↓あ、奥におられました

***
少し戻って今度は塔のすぐ横にでた
鎌倉時代に源頼朝が寄進したそのままの姿を留めているのだとか↓

↓源頼朝と乳母の亀谷禅尼その娘で頼朝の第二妃だった亀の前の供養塔と伝わるものもある


ここにも芭蕉が詠んだ歌碑があった↓写真右

あけぼのはまだむらさきにほととぎす
左は紫式部の供養塔

***
石山寺の門を出て
↓湖に面したあたりにあったモダンアートのようなこれは何?

言われてはじめてこれが「シジミ貝」だと理解した。
すぐ近くに、昭和十五年に発見された「石山貝塚」を解説する看板があった。五十メートル×二十メートルの広さに、最も厚いところで二メートルに積もった貝の層。さらに五体の屈葬された遺体や石斧なども見つかったのだそうだ。

今では琵琶湖のシジミ貝はずいぶん貴重になっているとか。
近くの出ていた「シジミご飯」の看板が心配になった。



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天智天皇は三井寺に薬指を埋めたか

2019-04-07 13:41:08 | 国内
三井寺の本堂前にあるこの燈籠の下に天智天皇が自らの薬指を埋めたという伝説をきいてびっくり↓

↓解説版

西暦645年、後に大化の改新と呼ばれることになるクーデターで蘇我氏一族を滅ぼしたが、罪悪感から自らの薬指を切ってここに埋めたというのである。
これが真実とは考えにくいが、三井寺が西暦七世紀から存在する寺であることを示す逸話だ。

※現在の建物は秀吉の正室・北の政所が1599に建てさせたもので、本尊は天智天皇が信仰していた弥勒菩薩。秘仏で見られないのだが。

三井寺は天台宗の寺だが、八世紀最澄以前はどんなだったのだろう。
そう思っていたら、白鳳時代の発掘された瓦が展示されていた↓法隆寺の瓦を思い出させる

ガイドさんによると、この時代の伽藍はまったく残っておらず、今の駐車場あたりにあったと思われるのだそうだ。

建物や物はほとんど残っていなくても、名前は飛鳥時代から継がれている。
三井寺で知られているが、正式な名前は「園城寺」↓

天智天皇没後に起きた跡目争いで父を殺された大友与多王(よたのおおきみ)が自らの屋敷「田園城邑」を寺にする事を認められてこの名前をあたえられたという。
あたえた天武天皇も、自分が殺した甥の息子から「父と祖父(天智天皇)の菩提を弔いたい」と言われれば断れなかっただろう。

三井寺という名前は彼ら兄弟(天智天皇と天武天皇)と天智天皇の娘である持統天皇の三人が産湯をつかった湧水があることによる。それがこれ↓「園城寺閼伽井屋(おんじょうじあかいや)」

本堂とくっついている建物は本堂が建設された翌年の1600年にたてられたとされる。
中を覗き込むと、水音が…

「水は今ではポンプでくみ上げている」のだそうです
軒下に刻まれた龍は、日光東照宮の眠り猫で有名な左甚五郎作だそうな↓

この龍が「夜な夜な抜け出して琵琶湖であばれるので、甚五郎本人が龍の目に釘を打ち込んでしずめた」のだそうな
**
三井寺の晩鐘にも伝説がある。

昔、里の漁師が湖畔で子供らにいじめられている蛇を助けた。
やがてやってきて漁師の妻となった女は、琵琶湖に住む龍女だった。
正体を知られた彼女は、二人の間に生まれた赤ん坊を残して湖に去っていかねばならなくなった。
まだ幼くて乳をほしがる子供に自らの片目をくりぬいて舐めさせるように置いていった。
やがて舐めつくして片目がなくなってもまだ乳をほしがって泣く声をきいた龍女は、もういちどやってきた。
そして残った方の目もくりぬいて子供に与えてしまった。
目が見えなくなった彼女は漁師に一つの願いをした。
「子供が元気である証に毎晩鐘をついてください。私は湖からそれを聴いて安心するでしょう」


今は誰でもつくことができる鐘。一回さんびゃくえんーー


現在の鐘は1602年に鋳造されたものなのだが↓
※こちら三井寺のページに写真とデータがのせられています

昔の鐘もちゃんと保存されていて「弁慶のひきずり鐘」と呼ばれているのだ↓

↓これが、それ

↓この鐘は八世紀、つまり最澄によって天台宗がひらかれたころの園城寺にすでにあったと思われる↓なぜ、「弁慶のひきずり鐘」といわれるようになったのか、逸話も書かれている↓

比叡山の山法師が周辺の寺を攻めた話は今回いろんなところできいた。鐘を略奪することもあったのでしょうなぁ。

↓江戸以降の挿絵がそえられていた

ちなみに三井寺のゆるキャラは「べんべんくん」↓


↓となりにあった大鍋は僧たちの食事をつくっていたものと推察されている


***
今の山口県から、1602年に毛利輝元によって寄進・移築された「一切経蔵」がある

チベット仏教でよくみられる、一回まわせばお経を一度読んだことになるというシカケであります。

****経蔵から三重塔への道に小さな石橋「村雲橋」がある
↓今日は桜が見事

九世紀に三井寺を再興した智証大師円珍にまつわる話がある。
晩年この橋の上を通りかかった時、神通力により自分が修業した唐の青龍寺が火事になっていることを知った。
円珍が水を撒くと橋の下から村雲がわきあがり、中国に向かって飛び去った。
翌年青龍寺から鎮火の礼状がとどいたのだそうな。


*****
三重の塔は1601年に徳川家康が奈良にあったものを移築・寄進した室町時代のもの↓

こうして時代をみてくると、江戸初期にかけて徳川家康によって再興された寺なのだとよく理解できる

この塔のあるのが「唐院」と呼ばれるエリア。
天台宗寺院としての園城寺(=三井寺)の開祖円珍(814-891)の廟がある。
天台宗は九世紀にこの円珍が比叡山を降りたことで分裂した。
山門派(円仁を中心とする比叡山に残った)と寺門派(円珍と共に山を下りて園城寺に入った)。
前出の弁慶が釣鐘を強奪した話、これで事情がわかった。

******こちらも17世紀に移築されてきた「微妙寺」の前を通り
少し階段を登って

観音堂へ至る

さらにうえに展望台があるがそこまでいかずとも十分な眺望が楽しめる。
「観月舞台」もある


美しい景色を楽しむためのこの建築努力


↓いわゆる「大津絵」もあった

京都の寺社仏閣で見られるような本格的な絵というよりも、民衆の中で育ってきた素朴な絵画だということだが、良い味でてます(^.^)

*******
いっきに下まで降りてゆくと、こんな神社があった↓

絵馬にはこういうお願いが書かれております↓

********
チャーターした車へ戻る途中で、琵琶湖から流れ出す疏水がちらりと見えた

明日朝はこの運河で京都まで行く。



三井寺をちゃんと見学しようとすると二時間あってもまだ足りません…
次は石山寺へ。大津は見所満載だ。


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西教寺 明智光秀ゆかりの寺

2019-04-07 12:00:00 | 国内
内陣への門に見事な麒麟の彫り物があった

麒麟は世に仁政が行われようとする時に現れる瑞獣だが、時代の主役にはならない。
明智光秀ゆかりの寺を飾るのに相応しいかもしれない。

2020年の大河ドラマ「麒麟が来る」でとりあげられる
**
浮御堂のある堅田から二十分とかからない坂本にある天台真盛宗の寺。
門から桜並木の坂道が見通せる↓

↓立派な車がゆるゆる降りてくるのに出会った。
ナンバーを見て「いちばんえらい方の車です」とガイドさん

後部席で合唱しておられるのがちらりと見えた

塔中のならぶゆるゆる坂をのぼってゆく
鬼瓦の横には猿がたくさん飾られている↓

ここの守り神なのだそうだ。由来が書かれた看板があったが↓ちょっとわかりにくい。

★逸話
室町時代に比叡山支配への反乱が起きた際、その首謀者が西教寺だと誤解した僧兵が襲ってきたことがあった。
僧兵は鐘を叩く音がする庫裏に踏みこんだが、そこには座主の代わりに鐘を叩く猿がいた。



琵琶湖と桜の木々が眼下に見える場所までやってきた

この塀の向こうに入る門に麒麟が彫られていたのである。



塀の中も桜が盛りだった

そのむこうに明智家の墓があった

明智光秀は天王山で秀吉に敗れた後、ここ坂本の城を目指して落ち延びようとする途中、農民に討たれた。
一族は坂本城に籠り、そこで秀吉の軍勢にとり巻かれて火を放った。
※湖畔の坂本城は今はまったく残っていない
墓碑の中でいちばん左端にある小さな墓が光秀の妻・熙子(ひろこ)のもの↓

無名時代から光秀を支えた。自らの黒髪を売って連歌の席の代金を捻出した逸話がある。
亡くなったのは天正四年(1567年)ということだから、光秀が坂本城主になって五年。
夫の最期まで生きていなかったことも幸せだったかもしれない。
彼女の娘のひとりが細川ガラシャ
※昨年宮津を訪れたときの事を思い出した
こちらに載せております



芭蕉の句碑
月さびよ 明智の妻のはなしせむ


下に降りる途中、「これがもともとの階段だったと思われています」と教えてもらった↓

かつての寺の様子を少ししのぶことができた気がした。
立派な広い道も階段も、みんな後付のものなのだろう。

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浮御堂(うきみどう)

2019-04-07 11:30:00 | 国内
鎖(じょう)あけて 月さし入れよ 浮御堂

芭蕉が好きだったという浮御堂

昭和九年の室戸台風で倒壊した後にコンクリートの橋げたで再建されているのだが、基本的なカタチは芭蕉が見ていたものを再現しようとしているのだろう。
**
京都・大原を朝十時に出発。
琵琶湖畔まで一時間とかからない近さなのにびっくり。
湖が見えてきた頃振り返ると、山の上に一週間前に降ったという雪が見えた
国道から住宅街に入り

突然湖畔に出ると目の前が浮御堂のある寺である。
その名も満月寺の龍宮門をくぐると、突き当りすぐに浮御堂が見えている

浮御堂の起源は十世紀。
比叡山から湖を見ていた僧・恵心が光る湖面を怪しんで訪れ、湖底から金の阿弥陀仏小像を見つけたことにはじまる。

室戸台風に破壊された御堂は、江戸時代に桜町天皇(在位1735-1747)が御所の能舞台を下賜したものだと現地の解説リーフレットに書かれていた。
そうすると、芭蕉が見たものはそれより前にあったものということになる。
どんな姿だったのかしらん。
***
御堂からの景色は、ガイドさんに解説してもらってぐっと面白くみえてきた
↓あの不思議な建物は湖水を監視している建物だとか

↑手前右手の杭は魞(えり)と呼ばれる琵琶湖伝統の定置網漁法なのだとか
「琵琶湖」という名前は江戸時代に普及した呼び名で、それ以前は「近江(おうみ)」が普通で、浜名湖を「遠江国(とうとうみ)」と呼ぶのは琵琶湖と対比しての名前だったのだとか。
へぇ~、教えてもらわないとわからないことだらけだ
↓琵琶湖大橋の向こうに見える「山」は、琵琶湖にある四つの島の中で唯一人が住んでいる沖島であること。桜もきれいな島らしい、一度訪れたくなった。

浮御堂のある堅田は平安時代末には京都の下鴨神社の管轄下に入り、湖の魚を献上するかわりに地域の湖上を支配する「湖族」の自治都市だったこと。
室町時代に叡山の焼打ちにあって壊滅し、住民は沖島に逃れたこと。※二年後に許されて戻る
古来の要衝ならではの逸話満載の大津だ。

浮御堂のすぐ近くに立つ句碑にSUP(スタンド・アップ・パドル)が近づく

これも近年に修復されたもののようだが、何と書かれているのだろう。

まだまだ時間をかけてみるべき場所がある堅田だった。












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