旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

屋久島歴史民俗資料館

2021-07-16 12:29:42 | 国内
海岸に流れ着いた像は明らかに日本のモノではなかった。

こびりついていた汚れを丹念に除くと金箔された豪華な着物を着ていた。

栗生の海岸に流れ着いてここに持ち込まれ、大学の先生にみてもらったところ

台湾や中国の海岸部で信仰されている「媽祖娘娘(まそにゃんにゃん)」か?結い上げられた髪↓

持っている桃と柘榴から、同じく道教の「西王母」か?と、推察されている。

屋久島には流れ着いた由緒ありげな像を「寄神様」として祀る習慣がある。

↑この木片は館長の黒飛さん自身が見つけたもの↓
「天官賜福」↓極楽の役人?

捨てられてしまいそうな木片をしっかり見る眼力は民俗資料館に必要。

屋外にほったらかしになっているこの変顔の像↓

顔がこんな冗談みたいに復元されたのは、もともとあった仁王の顔がこそぎ落されてしまったから。
↑なるほど、ちゃんとみるとこれも廃仏毀釈で破壊された仁王像のひとつだったんだ↑
像の後ろの水槽には↓

びっくりするほど長い↑木片が水に漬けてある。水中で発見されたものなので、この方が劣化を防げる。

なんと操舵の部分!100トンクラスの輸送船のものだったと推察されている↑
**

資料館入口↑こののこぎりはレプリカだが

歯のカタチが当時先進的で、木屑を凹んだところに逃がすので休まずに伐採できたのだそうだ。

↑館内の実物↑

木を伐採する作業員が住んだのが「網代小屋」

竹を細く割ったものを組み合わせて壁にすると涼しく過ごせた。
↑この復元小屋は大正末期から昭和にかけてのものだが、江戸時代には伐採した巨木をそのままふもとにおろすことは労力がかかりすぎた。「平木」に加工して背負って降りた↓こんなふうに

米の代わりに木材を年貢に納めていたから、「平木」はサイズが決められていた↓

「平木」は主に屋根に使われた。瓦屋根なんて贅沢だったのです。
***

↑これは平木ではなく、伊能忠敬の御用測量隊がやってきた時に宿泊してもらう場所を示した札↑
伊能忠敬が南の島を回るころには幕府からの重大なお役目と伝わっていたので現地はできる限りの用意をしていたのがわかる。
****

屋久島には縄文遺跡もある。
一湊で先にみつかっていたが、1971年に春牧の横川遺跡では126基もの住居跡が発見された。
2014年に地元の有志が復元をはじめてた。

地方の、地元に密着した民俗資料館をしっかり解説していただきながら見学すると、土地土地の姿がうかびあがってくるのだ。

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宮之浦再訪~屋久島新町役場、宮之浦の「牛床詣所」

2021-07-16 10:57:53 | 国内
「新庁舎は屋久島の森林資源の展示場である」屋久島町新役場の建築コンセプトより


「人工林の地杉だけでなく、天然杉や広葉樹(クス、タブ、センȀン等)、屋久杉などをやくしまフォーラムの柱、展示家具、ベンȁ、受付窓口のカウンǿー等に特徴的に用いることを検討する。」同じく建築コンセプトより
↑上の印象的な部屋は議場になる場所↑議員数十六なら固定の椅子などなくてもじゅうぶん(^^)

職員の労働空間も開放的↑誰でも自由に入ってよい

前回2017年にはまだ存在していなかった屋久島町新役場今年十二月の旅にご参加の前回2017年には完成していなかた。今年順次月には行程にいれよう(^^)


宮之浦から少しあがった林の中に

牛床詣所(うしどこもいしょ)がある。

ご神体である山そのものに入ることが許されなかった女性たちは、ここで男たちを見送り、祈った。
かつては各集落にこういった場所があり、宮之浦なら宮之浦岳へ、春牧集落なら前岳へ、山詣りをした。

ここは神社か寺か?鳥居の向こうに仁王様がある。

江戸時代には厳密に分ける必要もなかったのに、明治の廃仏毀釈で仏教的なものはほとんど破壊されてしまった。
宮之浦の益救神社(やくじんじゃ)には破壊され埋められていた仁王像が復元してある。
※2016年12月はじめての下見の時のブログをごらんください

平成になってから復元された碑文↑「法寿」になっているが、破壊される前は「宝珠」という神道の言葉だったそうだ。
寺が復元の監修をしたのでわざとこういう間違いをしているのだとか。
ううむ…
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