旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

《手造の旅》信州~諏訪編(諏訪大社上社本宮)

2022-10-18 11:32:10 | 国内
「今年の御柱には地面と擦れた傷がないんです」
理由は解説されなければわからない。

↑解説に来てくださったのは「木遣りコンクール日本一」のMさん↑
地図で御柱が切り出されるルートを説明してくださる。下の線が上社の御柱を運ぶルート。コロナ禍のため、山から切り出した樅ノ木を急な斜面を落とす「木落とし」も「川越し」も行われなかった。御柱千二百年の歴史上はじめてトラックで「山出し」をした。なるほど、だから擦れた傷がないのか。「里引き」だけは行われた。

↑御柱が社殿を囲む四隅に四本あることはよく知られているが、それぞれ長さが違うとはじめて知った。
↑冒頭の写真は「一の柱」で五丈五尺=高さはおよそ17メートル+地面下2メートル。↑すぐ上の写真に写っているのが「二の柱」で、一の柱より五尺(およそ1.5メートル)短くしている。「三の柱」「四の柱」と、さらに五尺ずつ短くしてある。

そもそも、なぜ御柱をたてるようになったのか?
↓諏訪大社が相撲取の神様である理由とつながる↓

二十以上の仮説があるそうだが、日本書紀の「国譲り神話」説がおもしろい。
★大国主命(おおくにぬし)=大黒様は、天照大御神(あまてらす)から派遣された建御雷神(たけみかずち)と天鳥船神(あめのとりふね)から国の支配権を渡すように迫られた。大国主命とその長男の事代主神(ことしろぬし)は同意したが、次男の建御名方神(たけみなかた)は力比べで決めようと言った。※戦いの様子は省略
力比べに敗れた健御名方神は逃げて諏訪の地まで逃れ、四本の柱を立ててそこから出ないとして許してもらった。
諏訪の人にはおもしろくない話かもしれない。

参集殿に大相撲優勝力士の扁額が納められている。
扁額は毎回増えていくので古いモノから下ろされるのだ。

千代の富士の扁額は↑1989年7月生まれたばかりの三女が突然死した直後の場所で優勝した時のもので、本人には特別な思い入れがある優勝だった↑優勝後に「供養になったと思います」と話したそうだ。

↑明治維新まで上社本宮には鎌倉時代の五重塔がそびえていた↑そのレプリカもここにある↑
廃仏毀釈で土台から完全に破壊されてしまった。あぁもったいない。

↑この図は廃仏毀釈で壊された建物を赤色で示している↑神仏を強制分離する思想は、戦争と同じぐらいの破壊をもたらした↑
現在寺として復興されたのは↓

↑二の鳥居を出てすぐ右にみえる法華寺。
織田信長が諏訪大社を焼き払った時に滞在した場所で、明智光秀の頭を掴んで折檻した事件はここで起きたと伝わっている。

忠臣蔵の吉良上野介の孫で養子となっていた吉良義周(よしちか)の墓もある↑討ち入りの現場で応戦したが切られてこん倒し、父の首をとられてしまった。武士としてふがいないと流罪とされて諏訪に預けられた。三年後に二十一歳で亡くなった。
この法華寺には美しい庭園もあるそうだ。いつか訪れる機会をもちたいとおもう。

↑かつて法華寺の塔頭が並んでいた通り↑
この先二キロほどのところに上社前宮(「まえみや」、または「さきみや」)があるので、この道が正式な参拝ルートだと聞いていたが、実際には神宮寺が隆盛していた江戸時代に主要参拝路とされたのではないかしらん。この道から二の鳥居をくぐって境内に入ると拝殿の裏手となり、布橋(渡り廊下)を通って折り返して拝殿に入ることになる。それ以前・もっと古い時代の上社本宮の正式参拝路は「波切鳥居」と呼ばれる一の鳥居で諏訪湖に面した方向だったのだろう。これなら湖側から境内に入り、自然に拝殿の方向に向かうことができる。

二の鳥居から境内に入ってすぐの「渡り廊下」が↑

「布橋」と呼ばれている↑拝殿へ向かう左手に三十九の神様を祀る社が並んでいる。
「布橋」に面して「御宝殿(ごほうでん)」がふたつあることが、「布橋」という名前の理由だと思えてきた↓「一般の神社の本殿にあたる」建物が「御宝殿」だそうな↓

↑御柱祭が行われる申と寅の年にこの社も新しくされ、神様が移られる。その儀式の際に神様が廊下を通られるので、氏子たちが布をもちよって廊下に敷いていた。なるほど※こちらに詳しく考察しておられる方がありますのでリンクしておきます

↑二つの社↑手前の賽銭箱がある方が現在神様がおられる方↑この二つの社の間に、徳川家康が奉納した「四脚門(しきゃくもん)」がある。

拝所に入るところに、売られている「鹿食の免(かじきのめん)」お守りを解説する看板があった↓

↑諏訪大社がなぜ全国に五千七百社もあるのか、Mさんの解説を伺って得心した。
★殺生を禁じる仏教がひろまると、猟師をはじめとする殺生を生業として生きている人々はうしろめたく思うようになった。殺生をして生きている自分は成仏できないのではないかしらん…。
諏訪神社では4月15日に鹿の頭を75頭も捧げる「御頭祭」が行われる。狩猟の伝統を神が肯定している。
仏教の手前、殺生にわだかまりを感じていた神官の夢枕に諏訪の神が立ち、告げた。
諏訪の勘文(すわのかんもん)
「前世の因果で宿業の尽きた生きものは、放っておいても長くは生きられない定めにある。したがって人間の身に入って死んでこそ、人と同化して成仏することができる」

このお札を手にしてほっとする人々は今でも多いのではないかしらん。全国に諏訪信仰がひろがる理由が分かった気がした。

拝所から見える山の方に「硯石」がある↓

「あそこに神が降りてこられるのです」
**
境内にある「神馬舎」

かつてやってきた貴人の馬を止めておいた建物だったのかもしれないが、今は中に逸話のある木馬が鎮座する。

↑明治27年、近くの大木が倒れて社を直撃した。中の木馬はしかし社から飛び出し、無傷で立っていた。「これは諏訪の神が馬に乗って日清戦争に加勢しにいったのだ」と、人々は噂した。

↑これが倒れた樹齢800年の欅の残り↑
***

↑日本一の「牛の一枚皮の大太鼓」は、平成22年(2010)にデビューした。
それ以前には、となりにある文政10年(1827)に貼り代えられた太鼓が日本一だった。

この太鼓は新年の午前零時に一度だけ叩かれる。
****

↑かつて諏訪の人々は貧しく、東京の海苔業者に出稼ぎしていた↑その縁は長く続いている。
*****
現在の実質的な主要参道にある北の大鳥居は2003年に奉納されたものである。

下見の時にご案内いただいたドライバーさんによると、新宿でラーメン屋からはじめて財を成した人だとか。

検索してみるとスーパーからホテル、不動産まであつかう総合企業になっていた。

諏訪大社は四つ。
しかるべき解説があればまだまだ興味深い事々に出会えるだろう。
Mさんのご都合のよいときに、ぜひお願いしたいと思っております<(_ _)>



★諏訪への《手造の旅》を催行するきっかけは2011年11月14日に、岡谷在住の方に案内していただいたこと。※その日のブログにリンクします
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《手造の旅》信州~諏訪編10/18全般

2022-10-18 07:44:40 | 国内
おもしろすぎる!
↑岡本太郎も大好きだったという石仏。こんなの他にありません。
今回の旅の最後に訪れた



標高千五百メートル近い車山高原のホテル。
昨夕到着した時には霧でなにも見えなかったがホテル廊下の突きあたり窓に見えた木はもうこんな色。

今朝のロビーには明るい高原の光が入ってくる

白樺湖方面や標高2500メートルの蓼科山まで見えた。
が、車山高原山頂までのチェアリフトはまた次回(いつ?)もっと晴れた時に。
**
四十分ほど諏訪方面に下り、
●茅野市尖石(とがりいし)縄文考古館を訪れる。

ここには「縄文のヴィーナス」「仮面の女神」二体の国宝土偶が展示されている↓

↑入ったところにあるマスクしているのは拡大したもの(笑)

「これ、ほんとにホンモノが展示されているのですか?」という声があがったほど
ほとんど完全なカタチで発見された力強い造形
※こちらに写真と共にもう少し書きましたのでごらんください
博物館前に立つこの人は?江戸後期に灌漑事業を行った坂本用川という人物だと解説してあった。調べてみると、彼の仕事は人工滝として近くにも残っている。一度訪れる機会をつくろうとおもう。地域を繫栄させるために農業用水が不可欠だった時代、日本各地にこういう人物がいたことを忘れないでいたい。
***
●仏法紹隆寺

一週間前に訪れて解説をお願いしていた※下見の時のブログにも解説を書きました

↑ゾウは西暦1292年(鎌倉時代)に製作された↑

↑上の普賢菩薩は一度織田信長によって破壊され、1593年(天正二十年)秀吉の世につくりなおされたもの。
オリジナルよりはだいぶ小さくなったのではないかと解説された。

上のリンクに書いたように、もとは諏訪大社上社本宮の敷地にかつてあった普賢堂に、諏訪大明神そのものとして祀られていた像。
明治の廃仏毀釈のすさまじさを実感していただくのも今回の訪問の狙い。
****
次に訪れた●諏訪善光寺にもかつて諏訪大社上社本宮にあった仁王像が移されている。

↑衝撃的に壊された↓

↑これら二体+不動明王、毘沙門天について
※下見の時のブログに書きました
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●諏訪大社上社本宮(かみしゃほんみや)

一週間前に下見で訪れた際、急遽ガイドをおねがいしてよかった(^^)

木遣りコンクール日本一のMさんの解説は、そのよく通る声と明快な解説でよく理解できました。
※こちらに諏訪大社上社本宮だけをまとめて書きました
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ランチは養命酒がプロデュースするCURASUWAにて

※1月に訪れた時のブログをごらんください
ここは野菜がとってもおいしいです(^^)
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昼食後、すぐちかくの
●片倉館
ここは諏訪の繊維産業がどれだけの繁栄をもたらしていたのかを感じさせてくれる

※2022年1月に「千人風呂」にも入った時のブログをこちらからごらんください
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●諏訪大社下社春宮と「万治の石仏」※今回はさっと訪問、またの機会にガイドさんと共にゆっくりおとずれます(^^)

鳥居をくぐると車道のど真ん中に太鼓橋がのこされていた↓

↑調べてみると「下馬橋」。
どんなエライ人もここで馬を降りる地点。
橋自体は江戸時代に修復はされているが室町時代からのもので、諏訪大社下社で最も古い建造物だそうだな。
今は橋にする必要などない場所に見えるが、橋の下には暗渠になった川が今も流れている。

↑春宮の境内真ん中に神楽殿↑

見事な木彫

↑春宮御柱

↑下社の紋は五根梶(五つの根がえがかれている)。
上社は四根梶。※実際には混在しているようだが


春宮の境内から小さな川を渡った場所にある奇妙な石仏↓

●万治の石仏をぜひお見せしたかった。

こんな石像を他に知らない。岡本太郎が大好きだったというのも納得。

↑川の歩道沿いにある文字は岡本太郎による

江戸時代1657年(明暦3年)に起きた「事件」が発端。
事件の翌年からの万治年間(1658年から1661年まで)に石仏にされたようで

「万治三年十一月一日」と刻まれているのが名前の由来になっている。

↑真後ろが大きく切り取られたようになっており、くさびの跡のように見える箇所もある。

ユニークなこのアタマは万治年間に誰がつくった?
調べてもわからなかったが、この大胆で力強いカタチが大きな魅力になっている。

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塩尻へ向かう峠から最後の諏訪湖が見えた↑

新宿を走っている国道20号線は通称「甲州街道」と呼ばれるが、本来は下諏訪が終点。国道20号線は塩尻駅が終点↑※上の写真左下に「終点」と書かれている。中山道
JR塩尻駅で解散にしたのは、今回大阪と東京両方から参加していただいていたから。

信州はなるほど日本の真ん中ですね(^^)

諏訪旅を《手造》する最初のきっかけは2011年11月14日。
岡谷在住のTさんにご案内いただいたこと。
※この日のブログにリンクします
ずーっと良いところだと思っていたが、今年2022年の1月に軽井沢の方にまた別の視点からご案内いただき、具体的なアイデアが浮かんできた。
ひとつの旅がカタチになるまでにはそれなりの時間が必要なのです。
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