明治の「廃仏毀釈」のすさまじさを語る顔。
諏訪善光寺は細い道を抜けた高台にある。
1826(文政6年)の門からパノラマ、二百年の風景↑
廃仏毀釈で取り壊された諏訪大社上社神宮司の仁王門にあった二体は↑最初ここに置かれていた↑
↓これが、それ↓今は屋内で納骨堂を護っている↓
神通力を失わせるために片目をくり抜かれ、装束もはぎとられ、かつては屋外の仁王門に置かれて子供たちがのぼっていた。
吽形も同様
この諏訪善光寺を開いたのは本田善光(ほんだよしみつ)。
長野の善光寺よりも以前になる。
長野善光寺のHPではまったくふれられていないが↓
※善光寺のHPにリンクします
ご本尊が難波から長野へ移される途中、ここに七年滞在したとされる。
それだけの由緒ある寺院だから、諏訪大社上社神宮寺が破壊された時、ゆかりの仏像がここに移されたにちがいない。この二体の仁王が護っているのは本田善光を祀った納骨堂である↓
下の本堂で阿弥陀如来の脇に立つ毘沙門天と不動明王も、諏訪大社上社神宮司の普賢堂を護っていたと伝わる。※現在仏法紹隆寺にあるこの普賢菩薩像があったお堂
鎌倉から室町の時代のもの↑目だけが光っているのは、廃仏毀釈でくりぬかれていたのを修復したから↓こちらの毘沙門天も同様
目の前の仏像がどのような経緯でそこにあるのか・どうして今のお姿になったのかを知るためには、明治の廃仏毀釈を避けてとおれない。黒歴史故に解説するときにもさらっとしか触れられないことが多いのだ。
来週10月16-18の長野上田と諏訪の旅では、諏訪大社がどのような災禍を被ってきたのかも感じていただきたいと思い、ここを訪れることにします。
諏訪善光寺は細い道を抜けた高台にある。
1826(文政6年)の門からパノラマ、二百年の風景↑
廃仏毀釈で取り壊された諏訪大社上社神宮司の仁王門にあった二体は↑最初ここに置かれていた↑
↓これが、それ↓今は屋内で納骨堂を護っている↓
神通力を失わせるために片目をくり抜かれ、装束もはぎとられ、かつては屋外の仁王門に置かれて子供たちがのぼっていた。
吽形も同様
この諏訪善光寺を開いたのは本田善光(ほんだよしみつ)。
長野の善光寺よりも以前になる。
長野善光寺のHPではまったくふれられていないが↓
※善光寺のHPにリンクします
ご本尊が難波から長野へ移される途中、ここに七年滞在したとされる。
それだけの由緒ある寺院だから、諏訪大社上社神宮寺が破壊された時、ゆかりの仏像がここに移されたにちがいない。この二体の仁王が護っているのは本田善光を祀った納骨堂である↓
下の本堂で阿弥陀如来の脇に立つ毘沙門天と不動明王も、諏訪大社上社神宮司の普賢堂を護っていたと伝わる。※現在仏法紹隆寺にあるこの普賢菩薩像があったお堂
鎌倉から室町の時代のもの↑目だけが光っているのは、廃仏毀釈でくりぬかれていたのを修復したから↓こちらの毘沙門天も同様
目の前の仏像がどのような経緯でそこにあるのか・どうして今のお姿になったのかを知るためには、明治の廃仏毀釈を避けてとおれない。黒歴史故に解説するときにもさらっとしか触れられないことが多いのだ。
来週10月16-18の長野上田と諏訪の旅では、諏訪大社がどのような災禍を被ってきたのかも感じていただきたいと思い、ここを訪れることにします。