旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

《手造の旅》奈良桜井エリア秋‗室生寺と安産寺

2022-11-02 14:18:29 | 国内
秋晴れの室生寺に季節外れのしゃくなげが咲いていた。


橋のたもとで車をおろしてもらう。

橋向こうに紅葉

右へ折れて寺領に入り、昭和に建設された仁王門をくぐる


風はない。木の間からの陽射しが暖かい。

「鎧坂」という石段をのぼった先に

金堂がみえてきた。ここに国宝の釈迦如来立像をはじめとする珠玉の仏像が収められている。
※室生字のHPからくっきりした写真をご覧いただけます。

優劣ではなく、春と秋でこんなに雰囲気が変わるのか
※2022年春に訪れた時のブログをこちらからごらんください
もうひとつ石段をのぼって本堂へ

ここにはヒンズー教の神像を思い出させる如意輪観音像が祀られている
※室生寺のHPからご覧いただけます

国宝の五重塔

向かって横の赤いお堂には

室生寺の実質的な開祖である修円(しゅえん771-835)が葬られている↑
室生はもともと雨乞いの地で各種祈禱も行われていた。修円の師である賢環(けんかん714-793)が山部親王(後の桓武天皇)の病気平癒のため五人の僧と共にここに籠ったことがはじまり。修円は師の没後に比叡山の義真(ぎしん781-833)のもとで学び、義真の死後に比叡山のトップ(座主)を称した。それはしかし仲間内の承認を得られず、比叡山を降りてかつての師と共に祈祷をおこなった室生に寺を建て、この五重の塔も建立した。台風で破損した五重塔を修理する際に木材の年代を測定したところ、修円の死の前の年には完成していただろうと思われる。
「わしをこの塔の見えるところに葬ってくれ」と言っていたのかもしれないですねぇ(^^)
車に乗って、今日は草餅をいただきます(^^)
室生川を右に見ながら走ると

↑安産寺の看板
田舎道を少し登ると

春と同じに村の方々が待っていてくださった(^^)
※今年2022年春のブログにリンクします
↑上のブログに書いたように、ここのお像は昭和になってから二度も博物館に持っていかれた。
「国宝級の像をいつ火事になるか・盗難に遭うかわからないような建物に置いておけない」という理由で。
だが、村人にとっては村の心臓を持ち去られるように感じていただろう。

↑※絵葉書より↑
「布でぐるぐる巻かれて運び出されるのを見て、子供心に寂しゅうなりました」
今日案内してくださった方は七十代で、昭和三十八年に博物館に持ち去られた時のことを覚えておられた。

今年春にはじめてお会いした時、
思えば圧倒されっぱなしだった。
二度目の今日はもう少し平常心で相対することができる。

衣の波文様は一見様式的に見えるが、靴にかかっている部分をみるとかなり写実的。
真横から見る表情は子供が微笑むように幼くなる。
現在の光背は江戸期のものと思われるが、絵葉書の写真のようにむしろ無い方がよいかもしれない。

気付けば一時間近くも滞在。
あたりがほの暗くなると、ロウソクのような下からの光に照らされる表情に命がやどっているように見える。
「この時間に見ていただけてよかったですぅ」

ほんとに(^^)

「仏像はカタチをつくって完成ではない」
解説ビデオで村の人が語っていた言葉。
何の理由かは分からないが室生寺を出て、
何百年もこの村で守られて・人々を護ってきた地蔵様は、
ここにあってこそ完成している。


すっかり暮れてから、良いお湯の宿に到着。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

《手造の旅》奈良桜井エリア秋_広陵町の牧野古墳馬見古墳群と百済寺の三重塔

2022-11-02 10:42:15 | 国内

須山古墳横のコスモスが美しい11月3日

新大阪駅10時集合

検温・乗車。
2025の万博に向けて高速が大規模改修にはいってどこも混みあっている。
大阪の街を抜けて、奈良広陵町に入るのに一時間近くかかってしまった。

11;30牧野古墳(ばくやこふん)到着。

広陵町のガイド会長Aさんが石室のカギを開けてくださる。

奥行17mは石舞台古墳より少し小さいだけ。
公式には年に二回内部を一般公開する。
「毎回続けて来られる方があったので『何をご覧になりたいのですか?』と訊ねると、『石組みです』と言われました」とのこと。

千三百年のあいだには地震も数多くあっただろうに、この石組みはびくともしていない。おどろくべき精巧さで組み合わされている。

被葬者は押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)とされる。
敏達天皇の第一王子だが当時権勢をふるいはじめていた蘇我氏の血をひかない人物だったので天皇にはなれなかった。逆にいとこの聖徳太子は蘇我氏の地をひいていたので政治の表舞台で活躍した。蘇我氏敵対する勢力に担がれそうな第一人者だったので暗殺されたという説もある。中大兄皇子の祖父にもあたる。
それだけの人物に相応しい規模の古墳。
石室は近隣の花崗岩使っているが、石棺だけははるばる兵庫の加工しやすい竜山石(流紋岩質溶結凝灰岩)が使われている。

周囲が住宅開発された1983年(昭和58年)に本格的に調査され、盗掘はされていたものの多数の副葬品が見つかった。市役所の敷地にある平屋の収蔵寛にこれらのお宝が収蔵されている。あとで見ていただきましょ(^^)
***

↑竹取公園に車で移動。広陵町は「かぐや姫の里」として売り出し中。きけば「かぐや姫」の舞台と称する地は日本中に十八カ所もあるのだとガイドのAさん。

この周囲には二十以上の古墳があつまっている。そこに公園をつくるにあたって狐塚古墳を切り裂くようにして道路が通された↓

↑道路が古墳を横切っている場所は…↓

↑路面が緑色に塗ってある↑

上の古墳地図で右下に白い前方後円墳が見えるが↓これがその巣山古墳↓

被葬者は武内宿禰(たけしうちのすくね)説がある。さっきの牧野古墳より二百年ほど古い時代。
↑200年(平成12年)から現在までゆっくり発掘調査が行われて、葬送に使われたと思われる喪の船(の一部)が見つかった↓

↑遺体を墓に埋葬した後に運んできた船を解体して埋めた⇒エジプトのクフ王のピラミッドを思い出すではないか※2016年に「太陽の船」を見学した時のブログにリンクします
訪問順は後になるが、広陵町役場に保管されている船の一部がこれ↓

踏んでしまいそう(笑)
↓レプリカをつかって復元した全体がこちら↓

↑左端に写っているのがそれです。
***

12時半ごろなり公園で柿の葉寿司のお弁当。

↑座ったベンチにもホンモノの石棺↑これは広陵町の西に位置する香芝市から発見されたもので、成人男性と子供?の二体が埋葬されていたのだそうだ。


↑前出の「喪の船」や、牧野古墳からの発掘お宝が保管されているのがここ↑

巣山古墳からは大量の埴輪群



↑牧野古墳(ばくやこふん)からの発掘物についてこちらにももっと載せてあります

広陵町の最後は百済寺の三重塔へ

この近辺には申し込めば拝観させていただける重要文化財級の仏像も多々残されているもよう。
ガイドのAさんに案内していただける機会をつくりたいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする