旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

《手造の旅》近江長浜と間人~西野水道と西野薬師堂

2022-11-28 15:43:23 | 国内

手掘りで山の下を220m掘り抜いた水抜き穴

穴の高さは160㎝ほどのところが多い。少し頭を低くして歩き続ける。

途中で高くなったところがあるが、それは方向を間違って修正した跡だそうな。
両方から掘ってよく接合できたものだ。
一説には、掘りはじめるしばらく前に伊能忠敬がやってきたことがあったので、測量の技術を学んでいたのではないか、とのこと。

なんどか曲がりながら琵琶湖側に抜けた

すぐとなりに昭和23年に建設された二番目の水抜き穴が見える

↑案内のNさんが子供の頃はこちらからどうどう水が流れていた。

「昔はここで泳いでいた場所ですよ」
↑その水が流してきた土砂が溜まって↑こんな地面になっている。

1980年にさらに大きな三番目の水抜き穴=トンネルがつくられ、現在の余呉川はここから琵琶湖に注いでいる。

昭和23年の二番目の穴を通って戻る↑

この水道ができたことで西野地区の収穫量は格段に増えたのだそうだ。

水道建設を指揮した恵荘上人がおられた寺へ

ここにも村の人々が護ってきたお像がある

もともと天台宗の泉明寺という寺があったが兵火に焼かれ焼失。
村人が救い出したお像二体が簡素なお堂に伝わっている

共に平安時代の作とされる、元国宝(※文化財法の改正により現重要文化財)。
十一面観音の頭の顔は小さすぎるので別物を移植したのかもしれない。足元に焼けたような頭が置かれていた。身体の表面が褐色なのはあとから漆が塗られたから。
幾多の変遷を経てもともとのカタチではなくなっているが、千年以上大切に護られている。

薬師堂のすぐ横に●正妙寺のお堂があり↓千手千足観音が祀られている。

ここでは撮影禁止だが、今年「東京長浜観音堂」にお出ましだった時には撮影したもの↓

※千手千足の由来などを書きました


●冷水寺には焼けこげた木像がある。

※2020年9月にはじめて訪れて知った話が興味深い
自称世界一小さな博物館で、今回も西嶋さんにお話していただいた(^^)


***
北國街道、木之本を少し歩く。

↑まだ緑が残る杉玉はつい先日今年のモノにしたばかりだった。
こちらの酒屋は「七本槍」が有名。

それをシェリー酒で使った樽を再利用して「純米シェリー酒熟成」という新商品を開発されている。
一本買いました(^^)

↑「本陣薬局」は大名行列が宿泊していた宿↑明治には薬局となり、新設された薬剤師の第一号さんがここに居られた↓



↑木之本地蔵の交差点がこのあたりの中心

※片目のカエルの話をこちらに載せました
高さ六メートルの「木之本地蔵」


もう一軒、老舗の酒屋さん↓

↑杉玉はまだ換える前のもの

↑こちらの名物は桑酒

普通のお酒というより養命酒・保命酒※瀬戸内の鞆の浦で保命酒の蔵を訪れた日のブログはこちら
ラベルもそんな感じ↑
↓これを使ったカクテルを試してみることにした

けっこうどっぷり桑酒を入れ、炭酸水で割って、レモンとライムを

桑酒そのものよりぐっと飲みやすくなりました(^^)

11月末、午後五時をすぎるとぐっと暗くなる。

歩いてすぐの「すし慶」へ

大きな大津絵が迎えてくれた

★湖北の味満載
●びわマスの昆布〆 ●丁子麩のからしあえ※農水省の頁に解説がありました茗荷がのっています ●海老豆 ●バイ貝 ●栗とサツマイモを練って  ●チーズと干し柿(ぐるぐるしたカタチ) 
●鴨

こぶりな焼き鯖そうめん

●鯖寿司は肉厚で酢で〆すぎていない


上皇様ご夫妻が皇太子時代に来られた際に「すし慶」が料理を出していた。

↑あぁ、ぜんぶ食べたい(^^)


秋の旅の宿泊には己高庵を選んだ。
さて、明日の朝のお天気を祈ります。

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《手造の旅》近江長浜と間人~米原から高月へ、西野水道入口

2022-11-28 09:09:24 | 国内
ヘルメットをかぶって西野水道に入る直前、目の覚めるような紅葉に出会った


朝。米原駅では「BIWAICHI(=びわ湖を一周する)」の宣伝をしている。
約240㎞(※実測はもう少し短いとか…)早い自転車で十時間強。

↑米原周辺だけで営業している井筒屋でもそれに合わせた弁当を売り出した↑

↑我々の今日のお昼も井筒屋の「湖北のおはなし」。これ、下見で食べて即決した。
※今年二月のブログにリンクします

今は(ほぼ)ぐるりと一周道路があるびわ湖だが、昭和に入るころまで湖岸に道路はなかった。

駅前ロータリーにある「米原湊跡」の碑がそれをあらわしている。
琵琶湖と切り離された小さな湖だったところを1603年に水路を掘削して内港にした。

米原駅から湖にでるあたりにその名残の水路がある↑「干拓博物館」一度見学してみたいです。

湖岸道路を北上すると

高さ28mの「長浜大仏」が立っている↑
「湖岸道路ができる前に建てられたのでお尻をむけています」
調べてみると現在のモノは1994年の二代目だが、初代は1933(昭和八年)に建てられていた。
当時は北國街道がまだ主要道路だったのか。

左手に長浜城が見えてきた↑外見はお城だが現代の博物館↑
※2022年2月に訪れた雪でいっぱいの長浜城をごらんください

↑さらに北上し尾上(おのうえ)が近づくころ↑左手に竹生島が大きくみえてきた↑
今日は最初に渡岸寺を訪れるのでトンネルをくぐってから右折。
トンネルの上の山には二十五年も続けて飛来しているオオタカがいるそうで、巨大な望遠レンズを構えた人が並んでいた。

最初に訪れるのは高月町の国宝の十一面観音立像。

像を管理しているお寺の名前は「向源寺」だが、このあたりの地名を「渡岸寺(どうがんじ)」という↑
赤い紅葉と黄色のイチョウが門の背に映える。

山門の中に立つ阿吽の仁王像は平安時代からのモノ↑筋肉を誇張し過ぎていないが迫力十分↑彩色ははがれているが見るべき木彫↑

ここに収蔵されている十一面観音立像はもとは天台宗の大伽藍に祀られていたと伝わる。
信長は比叡山と天台宗寺院を目の敵にし、姉川の合戦・小谷城攻め、さらに賤ヶ岳の合戦と続く戦火で二百以上あったという堂宇はすべてなくなった。

炎のせまる寺院から助け出された仏像たちは地元の人々のてによって様々に隠されて生き延びた。
↓この国宝指定された二メートル近いお像も境内の地中に埋められた↓

江戸時代に浄土真宗として復興した寺々では、天台宗の祀った十一面観音をそのまま寺にいれるが難しかった。
※浄土真宗は基本的に阿弥陀如来が本尊
そこで村の人々が建立した祠で護られていた。
向源寺の十一面観音は厨子の中に祀られているのではなく、特別な観音堂を建設し博物館のようにぐるりとまわって見ることができる。ほどよい照明も当てられている。

徒歩すぐの「高月観音の里歴史民俗資料館」へ

長浜の観音研究の中心がここ。
長年中心となって研究してこられたSさんに今回も解説していただくことができた。

二階ではここ出身の雨森芳洲の特別展示。江戸時代に釜山に三年留学し、対馬藩で朝鮮通信使対応の実務を担当した人物。いちどこの人物の元実家=現「東アジア交流センター」も訪れてみたいとおもっているのだが、まだ機会をもてていない。
長浜の集落ごとにある「おこない」と呼ばれる冬の行事に使うモノも展示されていた。「おこない」は雪の多い時期なので観光で訪れるのはたいへんだが、春の曳山祭は2023年に訪れる《手造の旅》を実現してみたい。
※「長浜キャピタル」のページに両方の様子が載せられています

資料館の入口に何気なく展示されている古い柱は↑かつて国宝の十一面観音を祀っていた藁ぶき?屋根のお堂のモノ↑
この建て替えに尽力した人のリアルな木彫が展示されていたのを思い出した。

「湖北のおはなし」弁当を境内でいただきます。

春の桜も、秋の紅葉も、お天気で幸いでした(^^)※今年四月の旅にリンクします

★西野水道~江戸時代の農民の悲願を今回も歩いていただきました(^^)
手掘りで220mの岩盤を掘りぬいた水抜き穴。当時のまま現代に伝わっている。

今の天皇陛下が皇太子時代に案内したNさん↓

皇太子様は歩いて抜けたそうだったが、御付きの方々が止めて最初の数メートルしかお入りになれなかったのだそうだ。

冒頭写真の紅葉の下と通り、いよいよ穴へ。

きのうけっこうな雨が降っていた。貸していただいた長靴越しに冷たい水溜まりを感じる。

次に続く
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