旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

《手造の旅》奈良桜井エリア~大宇陀街歩き

2022-11-03 13:56:07 | 国内
↑大願寺の門・秋↑


大和屋のヒット薬「天寿丸」「人参五臓圓」は天保六年(1835)に発売された。宣伝看板は何年後に製作されたのか定かではないが、日本最古の屋根付き看板とされている。

嫁入りで家の前に集まっている写真にも↑そのまま写っている


製薬業で財をなした大和屋は御用金600両(今の価値で3000万円ほどと解説された)を出したかわりに「細川」の姓を三代に限り使用することを認められた。ここが「旧細川家住宅」なのはそれ故。

細川[大和屋]の二代目治助は「山一」をシンボルとした↑
この看板にも「山一」の文字があるので、製作は二代目の時期だろう。

使われていた印鑑

↑「天寿丸」の扁額もそのころに書かれたもの。

当時の宇陀は薬問屋がなんと53軒もあった↑その筆頭でいちばん右に「治助」の名前が見える↑
↑左にもうひとつ黄色のメモが貼ってあるのが↓今も営業している「平五薬局」↓

53軒のうち、今も続いているのはここだけ?
↓当時の賑わいを写した珍しい写真が展示されている↓

↑右に「医療・工業用」の文字が見える↑

ここに藤澤製薬にゆかりの品がたくさんあるのはなぜなのだろう?と、ずっと思っていた。

左に見える巨大な鍾馗様はフジサワ製薬のシンボル↑
鍾馗様は樟脳をつくりはじめた創業者・藤澤友吉が明治30年に会社のシンボルマークに選んだ。

↑さらに巨大な鍾馗様は昭和五年(1930)東京日本橋に完成した東京支社の屋上看板だった↑
四回目の訪問で、細川家がフジサワ製薬創業者の母の実家なのだと知った。

母・細川まつは三重県名張の福守利兵衞に嫁いだが離縁されていた。
1866(慶応二年)に実家で友吉を出産。
満8歳で大阪道修町に丁稚奉公。
16歳の時に大阪の漢方医藤澤新平の養子となった。
27歳で独立、翌年薬問屋を開業。
33歳で樟脳事業をはじめている。
その時代に、実家の母と「大和屋」祖父の細川なにがしが友吉を支えていたのかもしれない。

***
宇陀が薬の里であることを理解させてくれるもうひとつの場所が「森野薬草園」
奈良時代からの葛をはじめとして今も薬草栽培がおこなわれている。

森野家は江戸時代よりずっと前から葛をつくり、薬草の研究をしてきたが、
第十代道貞が将軍吉宗から依頼をうけて、高価な輸入薬の国産化事業を成功させた。
隠居後に裏山にある「桃岳庵」に住み、絵入りの薬草図「松山本草」全十巻を遺した。

↑これが、それ↑

↑資料館で復元ページをめくって現代の名前と比較できる。
第十代道貞は初代森野藤助を名乗り、現在の当主は十一代藤助。


今日は後ろの山も色づいている。

春と秋の違い※今年2022年4月に訪れた時のブログをご覧ください



大願寺の薬草料理をいただきます(^^)

食事のあと、天女登場(^^)

大和ハープの演奏、ぐっと腕を上げられて、壬申の乱のときの行軍をイメージしてたという曲を聴かせてくださいました。

↑大願寺前庭
階段をおりたところにある「道の駅」から、川沿いに延びる細長い宇陀の街をあるくと、

十五分ほどで冒頭の「薬の館」と「森野薬草園」に至る。




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談山神社の蹴鞠2022秋

2022-11-03 11:29:58 | 国内
藤原鎌足を祀った十三重塔を背景に、春と秋に蹴鞠祭が行われている。

今年春は雨で屋内になったそうだが、今日は気持ち良い秋空がひろがった。


「鞠場」は四隅に竹が立てられているが、本来は「式木(四季木とも)」呼ばれる、松・桜・柳・楓を立てるならわしだった。
それぞれ二メートル半ほどの高さがあり、これ以上高く蹴り上げるのは「無作法」とされた。
この「無作法」こそが蹴鞠のなんたるかをあらわすキーワードだろう。

11時少し前、神職の方々がスタンバイ。

ショウなど和楽器の音と共に、まずは拝殿に行かれた。
神様にご挨拶の儀式をした後、三十分ほどしてやっと鞠場へもどってこられた。
※こちらにて行列の動画をUPしました

↑鞠は紅葉の枝に挟まれている↑

重さは120~150グラム。
鹿の皮二枚を貼り合わせてある。
縫い合わせるのには馬の背皮を使う。
もみ殻を詰めて丸く形成するが、最後には抜いて中空になっている。
実際にけったことのある方の話だと、「ぼそっとした感じ」。たしかに空気の抜けたバレーボールのように見える。

座って本堂内からも見られる。

「鞠足(まりあし)」と呼ばれる実際に蹴る八人が座について

まずはお祓い

神官から目代(もくだい)さんへ鞠が手渡され、

鞠場(鞠庭)の中央で袖に隠しながら鞠の紐を解く
※鞠目代(まりもくだい)とは蹴鞠の師範代のこと
蹴鞠にも流派があり師匠がいて、全国に「目代さん」と呼ばれる師範代職があったのだそうだ。
※余談:今回の旅メンバーに「目代」という姓の方があって、蹴鞠の解説アナウンスでいきなり自分の姓がでてきて驚かれた。「官職にまつわる姓だときいていましたが、こんなところで」。ご縁ですねぇ。

解かれた鞠は中央におかれる。

八人それぞれが鞠のコンディションをたしかめる「小鞠(こまり)」と呼ばれる試し蹴りをおこなってゆく。
鞠はひとつひとつ手作りなので重さも反応も違う。
全員が確認し終えて、プレー開始。
※動画をこちらからごらんください
「アリ~」「やー」「オウ」
動画の中できこえてくるように、三つの独特のかけ声が使われる。
現場解説によると「鞠の精を呼んでいる」のだとか。
また、自分が蹴るのをアピールするという話もあったが、その違いはよくわからい。

よく知られているように、鞠が地面に落ちないようにリフティングをつづける「競技」にみえるが、明確な勝敗はない。
ルールはいるいろある。
・右足をまっすぐ伸ばして蹴る
・頭や身体などをつかうことは不可
・鞠場に背を向けて蹴らない
・一人で三回以上連続で蹴らない
・無理な体制になって蹴らない
 ⇒「サッカーでファインプレーでも、蹴鞠では無作法とされます」と、現場で解説されていた。
これらを総合すると、蹴鞠のルールはいわば「優雅であること」。
地面に落ちないリフティングを目的としているわけではないようなのだ。

先が平たい専用の靴。使いこなすにはそれなりの練習が必要。
「蹴鞠保存会(しゅうきくほぞんかい)」の方々が京都から来てくださっている。
※こちらのページで活動の様子がわかります
蹴鞠の作法は「蹴道(しゅうどう)」と呼ばれ、茶道や華道のようにその作法を学んでゆく家元システムがある。作法を外れるのは「無作法」とされる。
そうか、蹴鞠はその外見からスポーツのように見えるが、茶道華道と同じ文化芸能の分野に属していたのか。そう考えれば、はっきりとした勝敗がないのも当然。
蹴鞠はスポーツではなく、「無作法にならぬよう優雅に鞠を蹴る」伝統芸能だと理解した。



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《手造の旅》奈良桜井エリア秋_談山神社

2022-11-03 10:19:53 | 国内
秋の蹴鞠祭の今日、鎌足公の神像(これは御前立)も御簾があげられていた。

※この日の蹴鞠につてはこちらからご覧ください。動画もリンクしています

美肌の湯の宿から朝霧の残る盆地が見える。
談山神社に向かう道で朽ち果てた門が見えた↓

「談山神社が妙楽寺だった時の門でした」と、ガイドさん。
鎌足の長男・定恵(じょうえ)が父の骨を分骨した妙楽寺は、明治の廃仏毀釈まで名前のとおり寺だった。
神社に変わる時に、中大兄皇子と鎌足が大化の改新の密談をした場所だということで「談山神社」という名前となったのだ。


駐車場は三つあるが第一駐車場でないとえらく歩くことになる。蹴鞠は11時にスタートだが9時半すぎに到着して先に境内を解説していただく予定。
↑今日の御朱印は特にきれい(^^)



階段の途中左手にある建物は↓

妙楽寺の講堂だった↑注意してみていると廃仏毀釈以前の様子がだんだんわかってくる。

↑室町時代・永正17年(1520)に建造された拝殿の下

↑拝殿の縁台↑ここからの景色がよくとりあげられている。

↑拝殿内部の中心↑折上げ格天井になった部分の↑縁の部分が白檀でつくられている↑そう、あの高価な香木です。

↑本殿は江戸時代に徳川家によって寄進されたもの↑

↑葵のご紋が↑柱上部の金属部分にみえる

建て替える前の本殿は、移築されて「日本最古の総社殿」として再利用されている↑
たしかに同じカタチをしている。柱上部の色が違うのは金属に覆われていたからだろう↑金属部分は再利用したのかしらん?

↑拝殿の一角に置かれた「嘉吉祭」の像はなんと室町時代から使われているオリジナルだそうだ。嘉吉祭とは、南北朝時代が終わった直後に南朝の残臣が起こした反乱で談山神社(当時は妙楽寺)が焼けてしまい、鎌足公の神像などが飛鳥の橘寺に避難してしまった。嘉吉元年(1441)9月に戻ってこられたのを地元の農民たちが喜んで供え物をしたのがはじまり。

↑農民たちが持ち寄った供え物は農産物からつくられている↑この色とりどりの粒ひとつひとつが色付けされた米粒↑今も毎年つくる↑

銀杏やムカゴもこんなふうにして↑「貧しいながらもがんばりました」という気持ちが伝わってくる(^^)
青農の人形は奉納行列の先頭に立っているのだそうだ。

拝殿に向かって右側下にある、通称「恋神社」↓

↑この建物もまた本殿だったものを移築している。前出の本殿と比べると、たしかに(^^)
祀られているのは鎌足公の妻・鏡女王(かがみのおおきみ)、そして二人の子供である藤原不比等、定恵。鏡女王は万葉集に「神奈備(かむなび)の伊波瀬(いはせ)の杜(もり)の呼子鳥(よぶこどり)いたくな鳴きそわが恋まさる」という歌があり、これが亡き夫鎌足を恋うる歌だという説がある。
※こちらのサイトに解説があります
このすぐまえに「厄割り石」がある↓

近くに売っている球形の陶器に息を吹きかけて、不都合がある身体の個所をなでて…↓

↑岩に向かって投げる↑けっこう丈夫でわれにくい(^^)
***
そろそろ11時、神官さんがスタンバイをはじめた

我々も鞠場の近くへ移動

和楽器の演奏と共に、鞠は本殿にご挨拶に行った。

↑蹴鞠の庭が見える↑「神廟拝所」は妙楽寺時代の講堂↑
仏教的な絵が全面を覆っているが、これらは廃仏毀釈の時に漆喰の下に隠されてていたもの。

現在の建物は1668年のものだが、それ以前にあった建物からは鎌足の遺骨が納められた十三重の塔を拝むことができたのだろう(と、春に権禰宜さんが話されていました)。

この建物に↑最初に載せた鎌足公の御神像御前立がある↑
★「御破裂」~国家に大事の起こる時、談山神社後ろの御破裂山(ごはれつさん)が鳴動しこの像にヒビが入る。朝廷に使者がたてられ、朝廷は神を慰撫する儀式を行う・ことになっている。歴史上三十五回起きたときいた。
春に案内してくださった祢宜さんに「ホンモノにはヒビが入っているのですか?」と質問したら、「はい、入っています」とのお応え。最後の「御破裂」は慶長13年(1608年)4月に起きたとされる。駐車場を出て少しいったところにその時割れた石があると紹介してもらった↓


**
拝殿に置かれた増賀(そうが)上人の木像。ここを訪れて彼の存在に興味を持ったが追いかけるチャンスがまだやってこない。旅の宿題のひとつ↓

比叡山中興の祖・良源(没後元三太師と呼ばれるようになる)の一番弟子だったが、比叡山にも虚栄や堕落があるのに落胆して御破裂山に隠棲した。
およそ百五十年後の平安時代に鴨長明が方丈記で言及している
※京都光雲寺のHPに、鴨長明が言及した三人の隠遁者について書かれています。増賀上人は三人目。
※奈良まほろばソムリエの方のページにも書かれています

やがてその生き様に共感する人々に崇拝されるようになっていったが、本人は最期までこの多武峰の山に隠棲しつづけた。
御破裂山の途中に、まるで古墳のような墓が遺されているのを写真で知った。訪れる機会をつくりたい。

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