↑大願寺の門・秋↑
*
大和屋のヒット薬「天寿丸」「人参五臓圓」は天保六年(1835)に発売された。宣伝看板は何年後に製作されたのか定かではないが、日本最古の屋根付き看板とされている。
嫁入りで家の前に集まっている写真にも↑そのまま写っている
製薬業で財をなした大和屋は御用金600両(今の価値で3000万円ほどと解説された)を出したかわりに「細川」の姓を三代に限り使用することを認められた。ここが「旧細川家住宅」なのはそれ故。
細川[大和屋]の二代目治助は「山一」をシンボルとした↑
この看板にも「山一」の文字があるので、製作は二代目の時期だろう。
使われていた印鑑
↑「天寿丸」の扁額もそのころに書かれたもの。
当時の宇陀は薬問屋がなんと53軒もあった↑その筆頭でいちばん右に「治助」の名前が見える↑
↑左にもうひとつ黄色のメモが貼ってあるのが↓今も営業している「平五薬局」↓
53軒のうち、今も続いているのはここだけ?
↓当時の賑わいを写した珍しい写真が展示されている↓
↑右に「医療・工業用」の文字が見える↑
ここに藤澤製薬にゆかりの品がたくさんあるのはなぜなのだろう?と、ずっと思っていた。
左に見える巨大な鍾馗様はフジサワ製薬のシンボル↑
鍾馗様は樟脳をつくりはじめた創業者・藤澤友吉が明治30年に会社のシンボルマークに選んだ。
↑さらに巨大な鍾馗様は昭和五年(1930)東京日本橋に完成した東京支社の屋上看板だった↑
四回目の訪問で、細川家がフジサワ製薬創業者の母の実家なのだと知った。
母・細川まつは三重県名張の福守利兵衞に嫁いだが離縁されていた。
1866(慶応二年)に実家で友吉を出産。
満8歳で大阪道修町に丁稚奉公。
16歳の時に大阪の漢方医藤澤新平の養子となった。
27歳で独立、翌年薬問屋を開業。
33歳で樟脳事業をはじめている。
その時代に、実家の母と「大和屋」祖父の細川なにがしが友吉を支えていたのかもしれない。
***
宇陀が薬の里であることを理解させてくれるもうひとつの場所が「森野薬草園」
奈良時代からの葛をはじめとして今も薬草栽培がおこなわれている。
森野家は江戸時代よりずっと前から葛をつくり、薬草の研究をしてきたが、
第十代道貞が将軍吉宗から依頼をうけて、高価な輸入薬の国産化事業を成功させた。
隠居後に裏山にある「桃岳庵」に住み、絵入りの薬草図「松山本草」全十巻を遺した。
↑これが、それ↑
↑資料館で復元ページをめくって現代の名前と比較できる。
第十代道貞は初代森野藤助を名乗り、現在の当主は十一代藤助。
今日は後ろの山も色づいている。
春と秋の違い※今年2022年4月に訪れた時のブログをご覧ください
大願寺の薬草料理をいただきます(^^)
食事のあと、天女登場(^^)
大和ハープの演奏、ぐっと腕を上げられて、壬申の乱のときの行軍をイメージしてたという曲を聴かせてくださいました。
↑大願寺前庭
階段をおりたところにある「道の駅」から、川沿いに延びる細長い宇陀の街をあるくと、
十五分ほどで冒頭の「薬の館」と「森野薬草園」に至る。
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大和屋のヒット薬「天寿丸」「人参五臓圓」は天保六年(1835)に発売された。宣伝看板は何年後に製作されたのか定かではないが、日本最古の屋根付き看板とされている。
嫁入りで家の前に集まっている写真にも↑そのまま写っている
製薬業で財をなした大和屋は御用金600両(今の価値で3000万円ほどと解説された)を出したかわりに「細川」の姓を三代に限り使用することを認められた。ここが「旧細川家住宅」なのはそれ故。
細川[大和屋]の二代目治助は「山一」をシンボルとした↑
この看板にも「山一」の文字があるので、製作は二代目の時期だろう。
使われていた印鑑
↑「天寿丸」の扁額もそのころに書かれたもの。
当時の宇陀は薬問屋がなんと53軒もあった↑その筆頭でいちばん右に「治助」の名前が見える↑
↑左にもうひとつ黄色のメモが貼ってあるのが↓今も営業している「平五薬局」↓
53軒のうち、今も続いているのはここだけ?
↓当時の賑わいを写した珍しい写真が展示されている↓
↑右に「医療・工業用」の文字が見える↑
ここに藤澤製薬にゆかりの品がたくさんあるのはなぜなのだろう?と、ずっと思っていた。
左に見える巨大な鍾馗様はフジサワ製薬のシンボル↑
鍾馗様は樟脳をつくりはじめた創業者・藤澤友吉が明治30年に会社のシンボルマークに選んだ。
↑さらに巨大な鍾馗様は昭和五年(1930)東京日本橋に完成した東京支社の屋上看板だった↑
四回目の訪問で、細川家がフジサワ製薬創業者の母の実家なのだと知った。
母・細川まつは三重県名張の福守利兵衞に嫁いだが離縁されていた。
1866(慶応二年)に実家で友吉を出産。
満8歳で大阪道修町に丁稚奉公。
16歳の時に大阪の漢方医藤澤新平の養子となった。
27歳で独立、翌年薬問屋を開業。
33歳で樟脳事業をはじめている。
その時代に、実家の母と「大和屋」祖父の細川なにがしが友吉を支えていたのかもしれない。
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宇陀が薬の里であることを理解させてくれるもうひとつの場所が「森野薬草園」
奈良時代からの葛をはじめとして今も薬草栽培がおこなわれている。
森野家は江戸時代よりずっと前から葛をつくり、薬草の研究をしてきたが、
第十代道貞が将軍吉宗から依頼をうけて、高価な輸入薬の国産化事業を成功させた。
隠居後に裏山にある「桃岳庵」に住み、絵入りの薬草図「松山本草」全十巻を遺した。
↑これが、それ↑
↑資料館で復元ページをめくって現代の名前と比較できる。
第十代道貞は初代森野藤助を名乗り、現在の当主は十一代藤助。
今日は後ろの山も色づいている。
春と秋の違い※今年2022年4月に訪れた時のブログをご覧ください
大願寺の薬草料理をいただきます(^^)
食事のあと、天女登場(^^)
大和ハープの演奏、ぐっと腕を上げられて、壬申の乱のときの行軍をイメージしてたという曲を聴かせてくださいました。
↑大願寺前庭
階段をおりたところにある「道の駅」から、川沿いに延びる細長い宇陀の街をあるくと、
十五分ほどで冒頭の「薬の館」と「森野薬草園」に至る。